母子家庭の貧乏生活だった過去から社長へ。「母に贅沢をさせたい」夢を追い続けられた理由に迫る

母子家庭の貧乏生活だった過去から社長へ。「母に贅沢をさせたい」夢を追い続けられた理由に迫る
売れるネット広告社 加藤公一レオさん(加藤さんより提供)

34歳で「売れるネット広告社」を創業し、48歳で上場。現在は複数の企業を経営する加藤公一レオさん。

ただし、成功に至るまでには数々の苦労がありました。加藤さんは幼いころに両親の離婚を経験し、母子家庭として女手一つで育てられますが、決して裕福な生活ではありませんでした。その経験から「母のために大金持ちになるんだ!」と幼いながら決意していました。

その強い思いが、後に起業のきっかけとなりました。

社員さんから「見た目は結構イケイケですが、社員一人ひとりをよく見てくれていて、その点にギャップ萌え」といわれる加藤さんは「就職は結婚のようなもの」と話し、社員を家族のように大切にしています。

そう考えるようになった思いや起業するまでのことなどを聞いてみました。

裕福な暮らしから苦難の日々へ

加藤さんの祖父は、福岡でトップ10に入る実業家で複数の飲食店を展開していました。そこで、加藤さんの父は祖父の会社に入社し、日本食の海外進出を考え、当時経済発展が著しかったブラジルでレストランを構えることにしたのです。

そのため、加藤さんは3兄弟の長男としてブラジルで生まれ、7歳まで暮らすことに。
「加藤公一レオ」という名前は本名で「せっかくブラジルで生まれたのだから、ミドルネームをつけよう」という父のアイデアからでした。

祖父が大金持ちだったため、加藤さんは6歳ごろまでは「お坊ちゃま」だったと話します。

ところが、父のブラジルでのレストラン事業がうまくいかなくなります。そこで、父は「アメリカに行って、レストランと貿易系の仕事がしたい!」と家族全員アメリカに移住することに。

しかし、当時の経済事情や会社員を経験せずに社長になったため、経験不足もあり事業が倒産。その後、加藤さんが8歳のころ父と母が離婚し、母は兄弟3人を抱え、母子家庭となったのです。

父が出て行った後の貧乏さを感じる(加藤さんより提供)

離婚後、母はレースのグッズやコースター、服などをミシンで作り、アメリカに来ている駐在員に売って生計を立てていましたが「とても貧乏だった…」と加藤さんはいいます。

そうした貧乏な生活は18歳まで続きました。

「当時、日本で言う100円マックで1ドルマックというものがあり、そこに行ってもそのバーガーしか買って食べたことしかなく、ポテトやジュースは頼んだことがない」と、そのときのことを振り返ります。

貧しい暮らしの中で、加藤さんは「いつか母に贅沢をさせたい」と強く思うようになりました。

それには「母がすごく明るい人でめちゃくちゃ幸せな毎日だったんですけど、でもやはり母が贅沢してこなかったんで、もうびっくりするくらい贅沢させてあげたい」という思いからだったのです。

また「アメリカという外国の地で、3人の子どもを内職しながら育てるのはとても大変だったと思うんです。母はいつも常にお金を心配していました。一切贅沢もしてこなかったし、旅行にも行かないでセールの服しか買わない暮らしでした」と。

父が出て行った後の貧乏さを感じる②(加藤さんより提供)

加藤さんは自分が長男だったということもあり、小学校6年生くらいからは大富豪レベルの親孝行がしたいという強い思いがあったと話します。

「そのために社長になる必要がある」と考え、そのためのTODOを小学校6年生から人生を逆算して過ごしていたといいます。

母への親孝行①(加藤さんより提供)

現在の加藤さんは、母に車や家も贈り、毎年ハワイや沖縄などあらゆるところに旅行に連れて行ってあげています。また、毎月仕送りもしており、兄弟の子どもの大学費用も振り込んでいるのです。

OB総勢60人近くを訪問

高校時代もアメリカで過ごしていた加藤さんでしたが、高校卒業後の18歳のときに日本の大学に進学することを決意します。

日本に来た当時の加藤さん(加藤さんより提供)

社長になって母を贅沢させるために、自分の人生を逆算して決めていた加藤さんは、日本に行った方が自分の市場価値を上げられると考えます。またアメリカは優秀な人が本当に多く、そこで戦うより英語が話せる点も含めて日本で戦いたいと思ったため、まずは留学する気持ちで日本に行くことにしました。

そして大学在学中、奥さんとの出会いがあり、日本に永住することを選んだのです。

日本に残ることを決意した加藤さんは、就職活動を始めることに。
「リスクのない起業をする」「父親を反面教師として会社員を経験する」という軸を持ち、就活に臨んだと話します。

加藤さんは大手に入社したいと考え、大手商社を狙うことにしましたが、当時は奇跡が起きないと入れない大学に所属していたのです。そこで自己分析や志望動機づくりなどを徹底的に行ったあとに、60人くらいのOB訪問をするという行動をしました。その結果、ライバルを蹴落として内定を決めたのです。

大学生時代に企業訪問を行った際の加藤さん(加藤さんより提供)

また、この行動によって「自己PR、自己プレゼン能力の自信が付いた経験になった」と加藤さんは語っていました。そして、転職や挫折、人生を変える出会いなどを経験し、34歳で「売れるネット広告社」を創業したのです。

「就職は結婚と同じ」という考え

加藤さんのこれまでの人生の中で辛かった出来事は「両親の離婚」「クライアントの倒産」でした。

それに対して、加藤さんは「ショックが人生を大きく2回変えたと思っています。ショックな経験も自分の経験として、次の行動に生かす動きをとることができたと思う」と振り返ります。

売れるネット広告社加藤公一レオ(加藤さんより提供)

現在は社長として「就職は結婚と同じ」と話し、社員と全力で向き合っている加藤さん。それにはこうした思いがありました。

「母を贅沢させたいという夢が叶った中で、社員がすごく増えていった。4人の会社に5人新卒が入ってきてくれた。新卒入社は人生に1回という中で自分の会社を選んでくれたことが嬉しかった」と。

会社の人事ポリシーについては、就職は結婚と同じという考えのもと、終身雇用を目指し、社員の成長と豊かな生活を支援することを重視していると話します。

さらに上場を目指した理由は「良くも悪くも、今やはり僕の影響力が強い。良くも悪くもなので、仮に僕の寿命が来たとなったとき。これって別に健康的な寿命ではなくマーケターとしての経営者の寿命がもし来た場合、会社ってどうなるかわからない。でも上場企業になればそこがある程度保障ができる」と、100年後も会社が続くようにしたいと考えたからだと話します。

夢や目標を予定として徹底的に行動すれば叶う

加藤さんは将来的に、グループ会社の売り上げを4年以内に100億規模に成長させることを目標としています。それによって「連動して、社員たちもドラマを見ることができる。自分自身も多くのドラマが見られる」と語ります。

また、加藤さんの思いは「社員・クライアント・株主すべてを幸せにすること」そのため、夢を予定としてとらえ、叶えるまでやり続けたいと話していました。

この記事に触れた人に、加藤さんが伝えたいことは「夢や目標を予定として徹底的に行動すれば叶う」ということ。
これは「自分の経験も踏まえて言い切れる」と加藤さんは力強く話します。

母への親孝行②(加藤さんより提供)

母の苦労を目の当たりにした経験から「大金持ちになって、親孝行したい」と努力を重ねて起業した加藤さん。成功したからといって決して自分は贅沢はせず、母やご兄弟に支援をしています。また、社員さんの話から「社長は誕生日に必ず連絡をくれる」とありました。そうしたことからも家族、そして同様に社員も大切にしている加藤さんの人柄が伝わってきますね。

「夢や目標を予定としてとらえて」という加藤さんの言葉と、苦難を乗り越え行動してきた姿を見て背中を押された方も多いのではないでしょうか。

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