相次ぐトラブルで3000万円が水の泡に……神奈川県内唯一の過疎地域・真鶴町で、人生をかけた「おもちゃ」作りに挑む起業家の軌跡

相次ぐトラブルで3000万円が水の泡に……神奈川県内唯一の過疎地域・真鶴町で、人生をかけた「おもちゃ」作りに挑む起業家の軌跡

小高い丘に向かって歩みを進めると、耳なじみのない小鳥のさえずりが聞こえてきた。目の前にはウッドデッキを備えた大型テントが立ち並び、それぞれに本格的なBBQグリルと、優雅に揺れるハンモックが設置されている。間違いなく「SNS映え」する、ラグジュアリーな空間が、相模湾を見下ろす高台に広がっていた。

クスクスグランピング真鶴(筆者撮影)

筆者が訪れたのは、真鶴駅から徒歩10分の場所にある「クスクスグランピング真鶴」という宿泊レジャー施設だ。2023年にオープンしたばかりの当施設は、都心からのアクセスの良さも相まって、休暇シーズンには予約が難しい人気スポットになっている。

アニメに出てくるようなツリーブランコに揺られ、パチパチとはぜる焚き火で焼いたマシュマロを頬張り、手持ち花火で大自然をキャンバスに絵を描く。誰しもが一度は憧れるような 「ザ・夏休み」のイベントを1日で体験し尽くせる空間に、筆者も童心に返ったような気持ちになった。

手作りのツリーブランコ(筆者撮影)

非日常感が漂う華やかなこのレジャー施設、実はこれまで二度のトラブルに見舞われている。その損失は、なんと合計3,000万円。現在の賑わいの陰には、代表メンバーの一人である藤田健さんとその仲間、そして家族と地元支援者による、地道で「映え」ない奮闘劇が隠されていた。

一人旅が趣味の大人びた14歳が抱いた「おもちゃ」の夢

1978年、三兄弟の末っ子として生まれた藤田さんは、神奈川県綾瀬市で育った。周囲は雑木林があるような田舎の住宅地で、カブトムシやザリガニを取ったり、桑の実を探して食べたりと、幼少期から自然のなかでの遊びに慣れ親しんでいた。

「あの頃、すぐ隣の海老名市は田畑が広がっていたので、おたまじゃくしをしこたま取ったことがありましたね。ヘビを捕まえて帰ったときには、さすがにおふくろに怒られました(笑)」

ワイルドな遊びを仕込んだのは、彼の両親だ。登山やスキーなどが趣味で、家族揃ってよくキャンプにも出かけていた。当時は設備が整っているオートキャンプ場はあまりなく、河原や山中など、自分たちで好きな場所を選んで野営を楽しんでいた。

アウトドア派の両親の影響を受けたのだろう。中学2年生になると、自転車で旅をするようになった。
「房総半島を1周したいから」と親にロードサイクルを買ってもらい、部活がない長期休暇になると、旅に出た。時には友人を誘うこともあったが、大抵は自由気ままな一人旅。安い民宿に泊まらせてもらうこともあれば、持参した寝袋にくるまり、一夜を明かすこともあった。

「クスクスグランピング真鶴」代表 藤田さん(筆者撮影)

「常に自分の世界を、視野を広げたいっていう気持ちが強かったですね。もちろん親は心配もしていたんでしょうけど、子どもはのびのびと育てる主義だったようで『まぁ、やってみれば?』っていう反応でしたね(笑)」

旅好きの少年がその頃思い描いていた将来の夢は、意外にも「おもちゃを作る人になる」ことだった。

「小学3年生くらいのとき、おもちゃメーカーの人が取り上げられている、テレビ番組を見たんです。新しい働き方としてフレックス勤務が注目され始めたときで、そのメーカーは率先して制度を導入したようでした。『頭を柔軟に使える時間帯に働くんだ』と話す担当者を見て、『すごく楽しそうだな』と思ったのがきっかけです」

高校に入学してほどなく、進学先の検討を始めた。
「ゆくゆくはおもちゃを作る仕事がしたい」と考えていたから「だったら美大だろう」と受験を決めた。すぐに美大の受験コースが設置されていた地元のアトリエに通ったものの、結果は不合格。卒業後は浪人する道を選び、専門の予備校に入り直して、翌春に多摩美術大学への入学切符を掴んだ。

「夢を叶えるためのスタートラインに立った」と喜んだのも束の間、のちにそのビジョンが泡のように消えてなくなるとは、思いもしていなかった。

才能溢れる美大で見失った、自らが進むべき道

進学したグラフィックデザイン学科では、ウェブデザイン・チラシ・ロゴ・アニメーションなど、グラフィックに関係する全般を学んだ。専攻は「立体イラストレーション」で、シリコンで型を取り、そこに樹脂を流し込む、いわゆるフィギュアを制作していた。大学生活はただただ楽しかった。だが、真剣に制作に取り組もうとすると、抗いようのない劣等感が湧き上がるようになっていた。

グラフィックデザイン全般を学んだ

「同級生たちがね、みんなすごく上手なんですよ。普通の大学にはいない、美的センスの持ち主がたくさんいましたから。僕なんか下手な部類で、どっちかというとテストの点数が良くて入ったようなもんです。努力の面で考えても、自分は才能が乏しいと感じていました。今でも自分が作るデザインは、あまり好きじゃないんです」

並行して、あんなに憧れていたおもちゃ作りへの情熱も、穴の空いた風船がみるみる萎むように、消え失せていった。メーカーの製品は、子どもが好きなキャラクターものが多いとわかったからだ。キャラクター製品は規格がきっちり決まっている。自由なもの作りが好きな藤田さんは、決まった内容を人から指示されて作る仕事は、自分には不向きだと考えたのだ。それに「下手な自分ではなく、センスに長けた人が作った方が世のためになる」という気持ちもあった。

やがて就活が始まると、羅針盤を無くした船のように、どこへ行くべきか、何をするべきなのか、自分でもわからなくなっていた。加えて、当時は就職氷河期の真っ只中。なんとなく企業の選考を受けてみたものの、まったくうまくいかなかった。

就職氷河期で、就活は思うようには進まなかった

このとき、海外勤務にも興味を持っていたことから「日本がダメなら海外はどうか」と香港へと渡航し、現地で就職先を探したことがある。2週間もの間、さまざまな企業に電話をかけ続け、アポが取れたら面接へと足を運ぶものの、結果は惨敗。中国語はおろか、英語も思うように話せない青年を雇ってくれる企業はそうそうなかった。

「英語をきちんと喋れるようにならないとダメか」と、そのままフリーターになるわけにもいかず、帰国後は友人の紹介で、美術作家のWEBプロモーション会社に籍を置いた。

しかしそれから半年後、学生時代に知り合った香港人の友人から、思わぬ誘いが舞い込んでくる。
「これから中米のベリーズで起業しようと思っているんだけど、一緒に事業をやらないか?」労働ビザを簡単に取得でき、外国人でも会社を起こしやすいこと。また、ビジネスチャンスもたくさんあると聞き、藤田さんは参画を決めた。ベリーズがどこにあるのか、どんな国なのかまったく知らなかったと言うが、なぜ馴染みのない国で仕事をしようと思ったのか。

「おもちゃメーカーで働くというゴールがなくなってから、あまり先のことを考えられなくなっていたんですね。まぁ、海外で働けて、その上英語も学べるならいいかなと思って」

当面の生活費として親から200万円を借り、2002年に単身中米へと渡った。

中米ベリーズで起業に失敗、WEBサービスで活路を見出す

ベリーズは中央アメリカの北東部にある、四国ほどの大きさの国だ。北はメキシコ、西と南はグアテマラと接しており、東はカリブ海に面している。1981年まではイギリスの植民地だったため、公用語は英語だ。マヤ遺跡や「ブルーホール」と呼ばれる美しい珊瑚礁が点在することから、アメリカ人観光客に人気のリゾート地として知られている。

マリンアクティビティが盛んな、ベリーズのキーカーカー島

当時のベリーズは、携帯電話の利用が始まったばかりだった。そこで、2人は中国から本体やアクセサリー類を輸入し、販売を始めた。さらに、電話事業が公営企業の独占状態にあり、高額な料金が課題となっていたところへ目をつけ、アメリカの格安IP電話サービスの代理店事業も始めた。特に、海外への通話機会が多い移民や企業に対して、新サービスへの切り替えを提案する営業活動を展開したのである。

「ベリーズにはたくさんの島があって、営業先に行くのによくボートを使っていました。海も景色もすごくきれいな所なんですけどね…あのときは経済的にも精神的にも全然余裕がなくて、常に『どうしよう、どうしよう』と不安が消えませんでした」

仕事を通じて、目標としていた英会話スキルは習得できた。だが、事業を軌道に乗せられず、2年で撤退に追い込まれてしまった。帰国後は美容雑貨を扱う会社へと就職したが、寝る暇もない働き方に耐えられず、1年半で退職。転機が訪れたのは、2006年のことだ。現在の妻の紹介でIT企業へと就職することになり、新規サービスを開発することになった。

「社長が『中小企業はツテがないから、デザイン性に長けたプロダクトや販促物が作れないんだ』と言うんです。一方で、デザイナーも営業先を探すには人脈に頼るしかなくて、『本当にやりたい仕事に巡り合えることはそうそうない』という状況がありました。そこで、『両者のミスマッチを解消するマッチングサービスを開発したら、誰でもデザインを活用できる世界が創れる』と閃いたんです」

そこで、企業とデザイナーのマッチングサービスをリリースしたところ、すぐに登録会員が2,000名ほど集まった。これは、現在のクラウドソーシングサービスの先駆けである。しかし、後発の他社サービスが伸びてくるにつれ「ここでは勝負できない」と路線を変更。2018年に日本の倍以上の人口を抱え、大きな市場が見込まれるインドネシアに子会社を設立し、現地に進出した日本企業を支援するサービスに軸足を移した。現在、藤田さんは同社で取締役を務めながら、新事業の拡大に向けて邁進している。

インドネシアの首都ジャカルタ

さて、冒頭で紹介したグランピング事業だが、もとはと言えばサイドビジネスとして始めたものだった。

実現しなかった施設計画に、1,000万円が消えた

藤田さんには、幼い頃からともに育ったいとこと、学生時代から仲良くしている友人がいる。3人は家族ぐるみの付き合いで、キャンプ仲間でもあった。顔を合わせると「みんなで何かビジネスをやりたいよね」と話が始まり「本業があるんだから、片手間でもできることがいいんじゃないか?」「ネットビジネスはどうだ?」などと、さまざまな意見を出し合った。あるとき、ふと思い浮かんだのが、グランピング施設のアイディアだった。

2015年に星野リゾートが日本初のグランピングリゾートをオープンしたことで、世間ではちょっとしたブームが巻き起こっていた。自前のグッズでキャンプ慣れしていた3人は「なんでわざわざ2万も3万もかけて…」と少々呆れ気味だったが「初期投資が少ない分、ビジネスとして成功させられるのでは?」と考えを改め、グランピング事業に乗り出すことにしたのだ。

土地探しを始めた2019年、3人はスチームン株式会社を設立し、本格的に事業化へと動き出した。藤田さんといとこの熊澤さんが共同代表となり、友人の松尾さんは出資者として参画した。

初めに目をつけたのは、神奈川県西部の町有地だった。そこは東京ドーム3個分はある広大な土地で、施設の開業には申し分なかった。スロベニアから専門の設計会社を呼び寄せてデザインを依頼し、同時並行で官民ファンドや銀行などから資金調達の算段を整えた。

「これで実現できる」そう思って住民説明会に臨んだところ、思いがけず一部の居住者から反対意見が寄せられた。

「初めの3年は足踏み状態だった」と語る(筆者撮影)

「町有地だったので、どうにかしたくても自分たちがメインでは動けなかったんですよね。『もうすぐ、もうすぐ調整つきますから』と行政側に嗜められて、待つことしかできない。そんな状況でも、交通費や打ち合わせの費用など、細々としたお金はコンスタントに出ていく。あのときが一番しんどかったですね」

結局、町と住民との折り合いがつかず、動き出しから3年で計画は白紙に。だが、行政への開発申請に必要な測量や図面作成などの外部委託費用が積み重なり、資本金として3人で用意した1,000万円は準備費用としてあっけなく消えてしまった。

しかし、ここで簡単に諦めるわけにもいかない。融資してくれる銀行などの後押しもあり、すぐに次の候補地探しに取り掛かった。そこで見つけたのが今の高台の土地なのだが…当初は「ここにグランピング施設を作れるとは、到底思えなかった」と振り返る。

「一面うっそうとした森で、まるでジャングルだったんですよ。敷地内には手付かずの空き家がそのまま放置されているし。でも『方角から考えると、向こう側を切り拓いたらきっといい景色が広がっているよ』と熊澤が言うんです。その言葉を信じて、ここに決めました。」

開拓前の様子(藤田さんより提供)

開業に必要な8,000万円を融資してもらい、ようやく施設作りに取り掛かった。だが、着工から数ヶ月経った2023年4月、前代未聞のトラブルに見舞われることになる。

工務店の破産で工事が中断、再びの大ピンチに

「実は、破産することになりまして……」

依頼した工務店の担当者から発せられた言葉に、耳を疑った。徐々に工期の遅れが目立ち「最近は連絡がつきにくいな」と感じていた頃のことだ。

「思い返せば、その1ヶ月くらい前に『次回の支払い時期を前倒しさせてもらえないか』と頼まれていました。ちょっと資金繰りに問題があって、と。『倒産するなんてことはないですから』って言っていましたけど、あれは予兆だったんですね」

この時点で、先方へ支払い済みの費用は約2,000万円。弁護士の知人に相談しても「取り返すのはほぼ無理だ」と断言された。

相当悲惨な状況だったのだろうと思いきや「2人とも前に進むことしか考えられなかった」と当時を振り返る。
「ここで辞めたらもっと大変なことになる。たとえ規模が小さくなったとしても、オープンするしか道はない」と腹を括り、まずクラウドファンディングで資金調達を試みた。本業で培ったスキルを生かし、急ピッチでWEBページを自作。2週間後にはプロジェクトをスタートさせた。

早々に立ち上げた、クラウドファンディングページ

肝心の工事はというと、下請け企業として入っていた地元の水道工事屋さんが、率先して職人仲間を集めてくれた。
「ここまで出来ているんだから、前に進みましょう。集まった人は全部事情を分かっているんで、ほとんど儲けなしでやってくれますから」と温かく、力強い言葉が、とにかくありがたかった。

少し話は逸れるが、真鶴町は神奈川県唯一の過疎地域である。人口・経済・雇用が先細る地域へ進出するスタートアップは、自社の経済効果や雇用促進を声高にアピールしすぎると「他所者が上から目線に…」と地元民に疎まれる可能性が少なからずある。だが、予想外のトラブルがきっかけで、開業前に地元企業との濃い関係性が育めたのは、怪我の功名だった。

真鶴港の風景

その後、1ヶ月間にわたって実施したクラウドファンディングは、見事成功。家族・友人・知人だけでなく、最終的には地元の支援者が続々と増え、目標金額の360万円を調達した。とはいえ、費用はまだまだ足りない。そこで、外注するはずだった500万円分の工事を自分たちで行うことにし、残りの費用1,500万円を追加融資してもらうことにした。

もともとが未開拓の土地には、やることが山ほどあった。週末になると、熊澤さんと松尾さんと3人でテント泊をし、茂り放題だった木や竹林をせっせと切り拓いた。手付かずだった空き家は、屋根のペンキを塗り直したり、穴を補修したりと、プロ顔負けの働きぶりである。
「そもそもDIYが得意だったのか」と聞けば、そうではない。その都度「YouTube」で調べ、専門家のアドバイスをもらいながら、作業を進めたのだと言う。

屋根の補修も自分達で行った(藤田さんより提供)

「本当にこんな所にオープンできるの?」と初めは疑心暗鬼だった兄弟・家族も、3人の奮闘を知り、一家総出で手伝いに来てくれるようになった。兄がチェーンソーを握るかたわら、両親がペンキまみれになりながら楽しげに作業する姿は、幼い頃の情景を思い起こさせた。

空き家の内装やインフラ関係は地元企業に依頼したものの、それ以外のウッドデッキや大型テントなどの設備は、ほぼすべて自分たちの手で整備した。開業の目処が立ったのは、約10ヶ月後のことだった。

ボランティアを募り、ウッドデッキを手作りした(藤田さんより提供)

人を楽しませる「おもちゃ」作りは、この先も続く

2023年10月25日、当初の予定から少し遅れたものの、「クスクスグランピング真鶴」は無事オープンを迎えた。メインテーマは「ソーシャルグッド」と「サステナブル」だ。建築資材には古材を使用し、県内のダムに流れ着いた流木を、ウッドチップとして再利用した。シャンプーや歯ブラシなどのアメニティも、サステナブルな製品にこだわっている。

流木を再利用したウッドチップ(筆者撮影)

食事は農作物への被害を防ぐために駆除され、後にそのまま廃棄されるはずだった鹿肉を小田原市の事業者から仕入れて、ジビエ料理として提供することにした。さらには、近隣店舗の干物やパンをはじめ、地元食材を60%以上使用したメニューを考案。真鶴近郊の海の幸、山の幸が堪能できる料理は、宿泊客に好評だ。

BBQディナー(藤田さんより提供)

「熊澤は環境保全団体に勤めているんです。なので、自然環境保護とかサステナビリティの要素を入れ込みたいと思っていました。加えて、私にはダウン症のある娘がいるので、ソーシャルグッドな活動も採り入れたかったんです」

施設を切り盛りしているのは、藤田さん・熊澤さん・松尾さんのほか、それぞれの兄弟姉妹が中心となっている。藤田さんの姉はカフェ業界で料理人のキャリアを積んでおり、メニューの監修を快く引き受けてくれた。熊澤さんの弟は支配人、妹はホスピタリティマネージャーを務めているが、二人とも立ち上げ当初から施設計画に乗り気で、森を切り開く段階から積極的に協力してくれていたのだそうだ。こうして見ると、ここは施設の整備からおもてなしまで、藤田家・熊澤家、そして友人の松尾さんの力を総結集した場所だと言える。

施設入口(筆者撮影)

2024年より、藤田さんたちは「真鶴を盛り上げたい」と企業・飲食店などを営む地元の有志メンバーとともに、一般社団法人MMK(Manazuru Moriageyou Kai)を立ち上げた。2025年3月には「源頼朝旗挙祭2025」というイベントを28年ぶりに復活させるほか、今後は地域の名産品を使った商品開発や、新たな観光アクティビティの提供も視野に入れていると言う。

オープンから約1年が経過した今、頭の片隅には遠い日の記憶が戻ってきている。

テントもベンチもすべて自分たちで手作りしている(筆者撮影)

「昔の『おもちゃを作りたい』という夢には、『人を楽しませたい』という想いが根底にあったんだと思います。ここに来るお子さんは、勝手に自然のなかで遊びを見つけたり、偶然出会った他の子と仲良くなって、気づけば一緒に遊び出したりするんです。焚き火を囲んだり、ボードゲームを楽しんだりね。僕らが作った空間で、みんなが思い思いに楽しんでいる。だから、今は『この施設全体がでっかいおもちゃだな』と思っているんです」

藤田さんの「おもちゃ」作りは、まだ始まったばかりだ。

この記事の写真一覧はこちら