一晩で熱が下がる娘に違和感…その後、医師「数値がおかしい」9歳で他界した娘を襲った病とは。その後、こどもホスピスプロジェクトに携わる母の思いに迫る

一晩で熱が下がる娘に違和感…その後、医師「数値がおかしい」9歳で他界した娘を襲った病とは。その後、こどもホスピスプロジェクトに携わる母の思いに迫る

「だいすき」と伝え、9歳の安藤佐知ちゃんはお空に旅立ちました。佐知ちゃんを襲ったのは急性リンパ性白血病。

その闘病生活は3年4ヶ月、そのうち2年7ヶ月は入院生活でした。白血病の再発がわかっても「ママ、もう一回一緒に頑張ろうね」と言い、そんな佐知ちゃんに支えられ、教えられたことが多かったというお母さんの安藤晃子さん。

晃子さんは佐知ちゃんの闘病の経験から、現在「愛知こどもホスピスプロジェクト」に携わっています。ホスピスとは、一般的に終末期を穏やかに過ごす場所、ですが「こどもホスピス」は、生命にかかわる病気や障がいのある状況(LTC)にある子どもと家族が、発病時からのびのびと遊びや学びを楽しむことができる場所なのです。

今回は、佐知ちゃんの闘病や佐知ちゃんへの思い「こどもホスピス」に携わるきっかけなどを晃子さんに聞きました。

※急性リンパ性白血病…正常ならリンパ球(白血球の一種)に成長する細胞ががん化して、短期間のうちに骨髄の正常な細胞を締め出してしまう、生命を脅かす病気

6歳で急性リンパ性白血病に

幼稚園年長の2017年10月の終わりくらいから足を痛がるようになった佐知ちゃん。そのときは運動会が終わった直後だったため、足を痛めたのかな…と様子を見ていました。しかし症状は改善せず、近くのクリニックに行ったところ成長痛だから大丈夫!と医師から言われ「気にしすぎなんだな…」と思ったといいます。

ですが佐知ちゃんは徐々に足を引きずるようになったため、近くの総合病院の整形外科でレントゲンを撮ってもらうことに。結果は異常なしで経過観察をしていました。

そのころから夜になると発熱し、朝には解熱を繰り返していた佐知ちゃん。しかし晃子さんは「幼稚園に行っていろいろなウイルスをもらっているんだろうな。1日で熱が下がるって強い子だな」と思っていました。

ところが、年が明けて2018年1月になっても症状はまったく改善しません。夜中に足の痛みで泣いて起きてくることもあったため、金曜日の診察時に症状を伝えると、週明け院内の小児科に紹介しますとのことで帰宅。

翌日の土曜日は朝から発熱し、足も痛がり泣いて「病院に行きたい」と言う佐知ちゃん。そこで総合病院の小児救急を受診しますが、インフルエンザやアデノウイルスの検査をしても陰性で、ただの風邪と言われたのです。そのときに足の痛みと発熱の関係について気になったため、採血をしてほしいと晃子さんは医師に伝え採血をしてもらいました。

それは「数ヶ月つらい思いをしているのは、きっと何か原因があるかもしれない。採血で異常がなければ自分が安心できるから」という思いからでした。
佐知ちゃんへ痛い思いをさせてしまったご褒美に、この後コメダ珈琲に行こうと約束をして帰る気満々でいたといいます。

ところが結果が出たとき、先生の顔色が明らかにおかしく、そしてたまたま当直だった血液内科の先生も来て「もう一度採血をさせてほしい」と…。晃子さんは痛い思いをまたさせてしまう罪悪感を抱きながらも、仕方なく再度採血をしてもらうことにしました。

コメダ珈琲に行く約束をしているのに、どんどん遅くなり心配になり始めたとき、仕事帰りの旦那さんが病院に到着。
待っていると血液内科の医師から「白血球と血小板の数値がおかしいので、もう一回詳しく採血をさせてほしい。今日は家には帰れません。このまま入院でベッドで絶対安静です。今日脳出血を起こす危険性もあります」と言われたのです。突然このようなことを告げられた晃子さんは、混乱します。
その後、旦那さんが佐知ちゃんの付き添いを行うことに、半信半疑のまま晃子さんは一度家に帰り、ひとまず入院の準備をしていました。

しかしそのとき、旦那さんから電話が入ります…。

「白血病で間違いない」と。
「医師である夫が言うから間違いないと思い。一気に涙が溢れました」と、晃子さんは当時のことを振り返りながら話してくれました。

治療中の佐知ちゃん(@aki_1047さんより提供)

急性リンパ性白血病と病名がわかったとき、佐知ちゃんは6歳でした。それから佐知ちゃんの治療が始まりました。1度目の入院は抗がん剤治療、2度目の入院は臨床試験での治療。2019年3月には3度目の入院で、これは骨髄移植のためでした。

「骨髄移植は命がけです。繰り返される入院に『またか』という気持ちはあったと思いますが、予定されていた入院でしたので、佐知は病院に行きたくないとかそういったことはあまり言っていなかったように思います。 私を困らせたくなかったのかもしれません」

佐知ちゃんは無菌室に入ることになりました。そのときの様子を「当時はぬいぐるみや除菌ティッシュで拭けないおもちゃは持ち込み不可でした。ですが、持ち込みOKのおもちゃをたくさん買ってもらっていたので、それを開ける楽しみもあったようです」と、小さな楽しみを見つけていたといいます。

言葉では「嫌だ」とか、不安な気持ちを口にすることはあまりなかったといいます。ですが無菌室に入る前に描いた絵は、顔が真っ黒に塗られていたのです。
いつもは明るいタッチで絵を描いていたため、顔を真っ黒に描いている絵はこのときが最初で最後。
「言葉では言い表せない感情を絵という手段で表現していたのだと思います」と晃子さんは話してくれました。

顔が黒く塗りつぶされた絵(安藤晃子さんより提供)

さらに入院当日の夕方、佐知ちゃんのおばあちゃん(旦那さんのお母さん)が大動脈解離で急逝。佐知ちゃんはおばあちゃんが大好きだったので亡くなった悲しみもあるものの、無菌室に入ったときに「ばあばがこれでいつでも私のところに来れるね」と言っていたといいます。

抗がん剤治療、骨髄移植などを乗り越え、2019年9月、佐知ちゃんが小学2年生のときには通学できるまでになったのです。

小学生の佐知ちゃん(@aki_1047さんより提供)

4度目の入院そして再発…

しかし2020年1月、骨髄移植の合併症で4度目の入院。さらに9月には白血病が再発。

3度目の入院までは、ゴールの見える入院でした。
「トンネルの出口があり、ここまで頑張ればゴールできるという目指す先があったのですが、最後の4度目の入院は骨髄移植後の肺合併症でした。そのため抗がん剤治療ではなくトンネルの出口がない入院で、家族それぞれにとってもつらい出来事でした。ずっと永遠にマラソンをしている感じで、どこまで頑張ったら報われるのか、ゴールが見えてくるのか、私は怒りや悲しみや取り残された感でいっぱいになっていましたが、佐知は『早く帰れるといいね』くらいの言葉でした」

さらに晃子さんは「一番ショックを受けたのは佐知だと思いますが、親である私の方がこの気持ちを表現してしまって…。だからこそ佐知からは私を気遣って、泣くこともできなかったのかもしれないと今になって思います」といいます。

4回目の入院に至る数週間前、呼吸がなんか早いなあ…と晃子さんは気づきます。
「本人もしんどさはあったと思うのですが、入院したくない気持ちで我慢していたのかもしれません。ですが、やはりこれはおかしいということで緊急で病院に行くことにしました。佐知はこのときは『絶対に入院したくない』と。私も同じ気持ちだったのであえて入院の準備をせず、帰れるかもしれないとわずかな望みをもって病院に行きました」といいます。しかし、緊急入院が必要とのことで入院することになりました。

佐知ちゃんは、小学校に行くのが「とっても楽しい」と言っていたため、学校に行けなくなることが悲しかったようです。入院の準備をするため、自宅に入院グッズを取りに3時間ほど帰りますが…。

そのときに佐知ちゃんが手紙を書いてくれていたのです。
「そのときは普通にありがとうと思いましたが、佐知が亡くなって改めて見返したときに、子どもって大人の顔色をとってもよく見ていること、私がイライラしているときでもそんなママも含めて大好きと言ってくれているように思えて…。このお手紙は宝物です」と晃子さん。

佐知ちゃんの手紙(安藤晃子さんより提供)

「ママへ。いつもありがとう。いろいろな事を毎日させてごめんね。わたしはママが大すきだよ。こんなむすめだけどこれからもよろしくね。前向きで明かるくて、おもしろいママ、大すきだよ♡さちより」

佐知ちゃんはこのとき、入院したくなかったけれど入院となりました。晃子さんも「また入院生活が始まるのか…」と不満をこぼします。また佐知ちゃんは、お兄ちゃんの正輝くんのことなどをいろいろ見聞きしていたといいます。
「その中で書いたこのお手紙、どんな気持ちで書いてくれたんだろう…と思うと、私の心の器の小ささを実感するとともに、佐知の心の器の大きさや尊さを感じました。私の方が精神年齢はこどもでした」

佐知ちゃんと正輝くんは2人兄妹。佐知ちゃんの長期入院により、正輝くんは爪を噛む、集中力がないなどの言葉にならない感情が身体症状として現れていました。

「ママ、もう一回一緒に頑張ろうね」

佐知ちゃんの闘病生活は3年4ヶ月、そのうち2年7ヶ月は入院生活でした。

「6年しか生きていない中での1年と、50年生きた中での1年はやはり長さが全然違っていて、子どもにとっての1年は永遠くらい長いものだと思います。白血病が再発した際、今までは治ること、元通りの生活に戻ることを信じてやってきたものが一気に崩れました。親である私自身が、もうがんばれない、前へ進めないと思いました」と晃子さん。

「今までやりたいことは 『元気になったらやろうね』とたくさん我慢をさせてきました。再発を聞いた瞬間、佐知に対して申し訳ない気持ちと罪悪感をすごく抱き、もうこの世が終わったと感じました。消灯間際に医師からお話があり再発を知り、そのときは心の風船が破裂寸前。少しの刺激で裂けてしまいそうだったのですぐに部屋に戻れませんでした。消灯後ということもあり、シーンと静まり返っている中、支援学級の前においてあるソファで声を殺して泣きました」

「でも佐知は一人でベッドにいて、もしかしてまだ起きているかもしれないから、早く部屋に帰らなければと必死で涙をとめようとしました。当時2人部屋だったのですが、部屋もシーンと静まり返っていて、そーっと佐知の隣に。佐知は寝ていたのか起きていたのかわかりませんが、目をつむっていました。布団に入ってからも頭から離れず、気を許したら涙があふれてくる状況でした。隣の子とは手を伸ばせば届く位置にベッドがあり、佐知の頭は私の肩とくっついていたので、泣き声や呼吸が佐知や隣の親子に聞こえて起こしてしまったらまずいとか考えながらあふれる感情をただただ殺して朝が来ました」

朝には再発を伝えなければなりませんが、晃子さん自身は頭の整理もできていない状況。そのためストレートに再発したことを伝え、一緒に泣いたといいます。

漢字の勉強をする佐知ちゃん(@aki_1047さんより提供)

しかし、佐知ちゃんから出た言葉は「ママ、もう一回一緒に頑張ろうね」でした。
実際つらい検査治療をするのは本人であり、過去の経験から過酷な状況になることは想像がついたと思われる中、佐知ちゃんは晃子さんを励ましてくれたのです。

その後2021年5月11日、全身の状態が悪化し、いつどうなってもおかしくない状態に。
家族で話し合いを行い最期をお家で過ごすために退院をすることになります。

「呼吸状態はもちろん、全身状態が非常に不安定で、次の瞬間呼吸が止まってもおかしくない日々の中で、佐知のお家に帰りたいというおそらく最後になるであろう夢を叶えたいと思いました。そして佐知の願いを叶えることが家族の願いでもあったので、自分たちにできることは何でもするという姿勢でいました」

このような状態で帰りたいと言っていいのだろうか、患者のわがままではないのかとも考えた晃子さん。しかし、移動中に呼吸停止、心停止を起こす可能性があることも家族で話し合い、そうなってもそれが佐知の寿命だったと思おう、あの時連れて帰らなかったらと後悔するのはやめようと確認し、最期はお家で看取りたいと医師、担当看護師さん、緩和ケアチームに相談しました。

すると「お家に帰りましょう」と、たくさんの医療スタッフの方々が佐知ちゃんの退院に向けて一致団結してくれたのです。

「私は家に帰るまでの事務手続きや関係部署とのやりとりで、1ヶ月くらいはかかるだろうと思っていましたが、来週には帰れますと言われチーム医療の底力を見せていただきました。一人の子どものために、たくさんの方々が関わり、お家に帰るという目標をみんなで達成できた気持ちになれました。皆さんと一緒に夢をかなえられたという達成感でいっぱいでした。本当に嬉しかったです。覚悟をもって行動に移せてよかったと思いました」

退院の時の様子については「意識レベルも低下していましたが、お家に着く手前の交差点で信号待ちをしている時に、小学生の下校時間と重なり、こどもたちの元気な声が聞こえてきました。そうしたら、佐知がその声の方に顔を向けようとしていました。みんなと一緒に学校に行きたかったと思った反応だったのかな。下校中のみんなの声が佐知に届いてよかったです」と晃子さんは話します。

そして佐知ちゃんは3日後の5月14日、顔面痙攣後呼吸停止、しかしその20分後呼吸を再開するという奇跡を起こします。
「『もうすぐお空へ行くよ』というメッセージにも思えたので、一家総出で未開封のおもちゃを全て開けてみんなで全力で遊びました。いつどうなってもおかしくない状況で、佐知に今まで伝えられなかった思いを全て伝えました。『私のことを一番大好きでいて欲しい』が佐知の願いでしたが、3つ年上の兄の正輝もいるので今まで『同じくらい好き』としか言えませんでしたが、その時は『さっちゃんのことが世界で一番大好き』と伝えました。私がそう言うと、もう声は出なかったけど佐知が口パクで『だいすき』と言ってくれました。」

その後、佐知ちゃんはお空に旅立ちました。

「存分に生きるを、一緒に。」こどもホスピスプロジェクト

「いつも支えてもらっていたのは私」と語る晃子さん。佐知ちゃんから教わったことは大きく3つありました。
それは「今を精一杯生きる、最大限楽しむ 」こと。
「困難な状況であっても共に生きていく、一人じゃないよ」ということ。
「自ら行動を起こし夢をつかみとる」ことでした。

「この佐知の生き抜く姿に後押しされながら私も生きていました。今を精一杯生ききる佐知を尊敬していました。この闘病生活は本当に多くの方々に応援していただき、私自身今まで生きてきた中で、こんなにも心がありがとうの気持ちでいっぱいになる経験をしたのは初めてでした。佐知にも、周りの皆様にも心からありがとうの気持ちでいっぱいになりながらの闘病生活で、人は一人では生きていけないという意味がようやく理解できました。佐知の『病気になったのは嫌だけど、でも病気になってよかったと思えることもある。元気だったらできなかった経験がたくさんできているから』の言葉通りだと思いました」と晃子さんは話してくれました。

晃子さんは、現在「愛知こどもホスピスプロジェクト」に携わっています。 愛知こどもホスピスプロジェクト(ACHP)の理念は「存分に生きるを、一緒に。」

それまで、晃子さんは横浜こどもホスピス(2021年設立)について、何度かテレビで見たことがあったといいます。しかし当時は「こどもホスピス」を知らなかったため「横浜に何かわからないけれどよさそうなものができるんだな」と思った程度だったといいます。

「こどもホスピス」を知ったとき、晃子さんは「佐知のような LTC(重い病気や障がいのある状況)のお子さんにとって、とっても大切で必要な場所だなと思っていました。大阪と横浜のみでなく、小児がん拠点病院(愛知は名古屋大学医学部附属病院。全国には15箇所)のある愛知にも必要だと感じました」と話します。

佐知ちゃんが亡くなり1年半後、愛知にこどもホスピスをつくろうとしている動きがあることを知った晃子さん。その立ち上げに偶然知り合いがいたこともあり、声をかけてもらえました。

そこに晃子さんが携わる決心には「存分に生きるを、一緒に。」という愛知こどもホスピスプロジェクトの理念が素晴らしいと思ったことにありました。また、佐知ちゃんが亡くなった1年後に晃子さんの義父が亡くなったこともあり、バタバタしていた時期が落ち着き、これから何をしようかなと思っていたタイミングでこの話があったといいます。

さらに「佐知とゆかりのある方々が立ち上げられたので、佐知も参加したいのかなーとも思えました。また、今まで私は人前でお話しするとか、パソコンを使うとか、そういったことをほとんどやったことがないまま生きてきたので、役に立てる自信が微塵もなかったのですが、プロジェクトのメンバーのみなさんや夫も協力すると後押ししてくれたのでやってみようかなと思いました」と話していました。

レモネードスタンド(@aki_1047さんより提供)

晃子さんはSNSで佐知ちゃんや正輝くんのこと、こどもホスピスのことを多く載せています。それに対し「共感や応援メッセージをいただいています。例えばレモネードスタンドの投稿をすると『Instagramで見ました』と会場にお越しいただいたり、会場には行けないけれど寄付をしたいからと連絡をいただいたりします。その中でお子さんを亡くされた方、現在闘病中の方、そのご家族がフォローしてくださり、こどもホスピスを応援してくださっている方が私のInstagramもフォローしてくださることもあります。Instagramで出会った方のお友達もフォローしてくださっています。出会ったことはないけれど、一緒に心配してくれたり泣いてくれたり喜んでくれたり、一緒に今を生きてくれているような感覚です。一人じゃないと思えています」と。

※レモネードスタンド…小児がん治療のために寄付するという社会貢献活動

佐知ちゃんとレモンのパウンドケーキ(@aki_1047さんより提供)

レモネードスタンドの準備の際、お空の佐知ちゃんに相談していたという晃子さん。そんなとき、レモンのパウンドケーキを正輝くんが作ってくれ、旦那さんはレモネードジュースを買ってきてくれました。

晃子さんの今後の目標は、まずは自分の周りからあたたかい空気をつくっていくこと。
「生きていれば日々いろいろなことがありますが、私も含めてその場に関わった方々が幸せと感じられる、生きていて幸せと思える、そんなあったかい居場所をつくりたいです。私の場合、子どもを亡くすという想像していなかった未来となりましたが、それで終わるのではなく、それも含めて今の自分があると思えるような人生にしていきたいです」と晃子さん。

さらに晃子さんはこう話します。

「佐知から教わったことを活かして生きていきたいです。そして、佐知が好きと言ってくれた『前向きで明るくて面白いママ』で生きていきたいです。こどもホスピスプロジェクトではLTCのお子さんご家族のみでなく、そこに携わっているスタッフやボランティアさん、みんなが『存分に生きるを、一緒に。』を味わうことのできる居場所を目指していきたいです」

晃子さんは、9歳の娘さんの佐知ちゃんを亡くすというつらい経験をしました。しかし娘の闘病からこどもホスピスの必要性を考えプロジェクトに携わり、活動を続けています。
「前向きで明るくて面白いママ」としてお母さんが行動していく姿を、佐知ちゃんはお空から見守り、応援していることでしょう。

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