日本一のバルーンアーティストが焼き芋屋の店主に!コロナ禍の収入激減生活から一転、極甘蜜芋に懸けた「第二の人生」への想いとは

日本一のバルーンアーティストが焼き芋屋の店主に!コロナ禍の収入激減生活から一転、極甘蜜芋に懸けた「第二の人生」への想いとは

千葉県香取市に「金」と名のつくさつまいもがある。宝石のような黄金色の輝きを放つことから「金密芋」と名付けられたその芋は、土づくりから熟成まで2年の歳月をかけた、唯一無二の存在だ。

夏限定「金密芋」の冷やし焼き芋(筆者撮影)

湘南在住の中山佳典さんは、その「金密芋」を焼き芋にして、移動販売している。ショーケースには他の品種も含めた大小さまざまな芋が並んでおり、なかには1本1000円以上するものもある。スーパーなどで見かける焼き芋は数百円程度だから、決して安いとは言えない。けれど、食べてみれば、きっとみなが納得するだろう。一口頬張れば「焼き芋」の概念を超えた、ねっとり濃厚な甘味が口いっぱいに広がるのだから。

スイートポテトかと錯覚しそうなくらい、しっとり・ねっとりした食感の焼き芋(筆者撮影)

さつまいもを「日常のおやつ」から「極上のスイーツ」へと変貌させる焼き芋専門店「藤沢焼き芋 ちちずいも」は、今から4年前にスタートした。聞けば、中山さんはもともと焼き芋とは縁もゆかりもない、バルーンパフォーマー。コロナ禍をきっかけに販売に乗り出したと言うが、一体なぜ焼き芋の世界へと足を踏み入れたのだろうか。

かつての泣き虫っこが目指した、新宿アルタ前

中山さんは新潟県見附市出身。地元はいわゆる昔ながらの田舎で、周辺の農家が当たり前に野菜を訪問販売する光景を見ながら育った。幼い頃の中山少年を一言で表すと「引っ込み思案の泣き虫っ子」。兄の後ろをぴったりついて行っては、置いてけぼりにされて泣く。小学校では予防注射が嫌すぎて、4年生になってもワンワン泣いていたそうだ。

「同窓会に行くと、今でも『あぁ、あの注射嫌いの』と言われます(笑)」

「ちちずいも」店主の中山佳典さん(筆者撮影)

しかし、思春期を迎えると内向的な性格から一転、目立ちたがり屋へと成長を遂げた。

「人を笑わせるのが好きだったんですが…今思えば、モテたいっていう気持ちが根本にあったのかもしれませんね(笑)面白い人の周りに友人が集まっているのを見ていたので。僕はかっこよくないし、運動もできなかったので『何か面白いことをやらなきゃ!』と常に考えていました」

高校卒業後は地元の菓子問屋へ就職。当時、進学する人は滅多におらず、周囲の友人たちと同じ道を選んだ。だが、親戚が営む東京の中華料理店でスタッフを募集していることを知り「東京へ行けるなら」とわずか10ヶ月で退職。18歳で上京した。

ある日、何気なく雑誌をパラパラとめくっていると、多数の芸能人を輩出している劇団の、団員募集の広告が目に留まった。目立ちたがり屋に一変して以来、テレビの世界に憧れを抱いていた中山さん。
「2年後に『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出る」という大きな目標を掲げ、劇団へと入団。平日は中華料理店の仕事、週末は劇団のレッスンに勤しんだ。

劇団の定期公演では、エキストラ役しか回ってこなかった

けれど、入団して2年が経った頃、プツンと糸が切れたように、レッスンへ行かなくなってしまう。

「いろいろなオーディションを受けたけれど、合格したのはエキストラ役ばかりで。やっとセリフがもらえたと思ったら、サスペンスドラマの目撃者役とか。『このまま続けてもテレビには出られないな』って、自分の中で諦めちゃったんですよね」

20歳で最初の挫折を経験した中山さん。以降は流されるままに生活する日々が始まった。

マジシャンから一転、37歳でバルーンパフォーマーに

それは、当時の友人の一言から始まった。
「なあ、サーフィンやりたくない?」中山さんも友人もサーフィン経験はゼロだったが「いいね、いいね」と盛り上がり、中華料理店の仕事を辞めて2人で勝浦へと移住。平日は水道工事の仕事をしながら、週末に思う存分波に乗る暮らしがスタートした。

その2年後には、劇団で知り合った友人の「サザンいいよね」の一言で茅ヶ崎へと移住。レストランのアルバイトや、運送会社のドライバーの仕事で生計を立てた。

茅ヶ崎の有名スポット「サザンビーチちがさき」

運送会社で働いている頃、現在の妻と知り合い結婚。ほどなくして「緑を感じながら仕事するのって、いいよね」と造園屋へ転職した。それまでノマドのように住む場所、働く場所を変えてきた中山さんが、ようやく「定職」に就いたのは26歳のときのことだった。

それからしばらくして、中山さんは4人の子宝に恵まれた。子どもが幼稚園に入ると「○○パパさん」と呼ばれることが増えたが、なんだかしっくりこない。
「自分は『パパ』というよりは『父』だろう」と、この頃から「中山ちちです」と自ら名乗るようになった。

ある日、仕事から帰ったところ、幼稚園に通う子どもからこのような話を聞かされた。
「お父さん、今日ね、幼稚園でマジック見たよ!すごかったんだからー!」

はじけんばかりの笑顔で、興奮気味にマジックショーについて語る我が子。その様子を見て、興味本位で高島屋のマジック用品店へ足を運ぶように。自分にもできそうなマジックがあればグッズを買い、密かに練習して家族に披露した。子どもたちの驚き、喜ぶ姿を見るのが、楽しみの一つになっていった。

元々興味があったこともあり、マジック用品店には足繁く通った

のちに、中山さんは地元のマジックサークルに入会。地域のイベントなどで、マジックを披露するようになった。あるとき「マジックの勉強になれば」と訪れたイベントで、とあるマジシャンが最後にバルーンアートをプレゼントしているのを目にした。その瞬間、ピンとひらめいた。

「マジックはお客さんにトリックを隠さなきゃいけない。つまり、騙さなきゃいけないでしょう?だから、内心いつもドキドキしていたんですよね(笑)それに、お客さんが驚けば驚くほど『最後に全部種明かししたい……!』という気持ちがずっとあって。バルーンアートなら手の内を見せながらパフォーマンスできるから、そのストレスがなくなるな、と。なにより、お客さんが『マジックみたい』と喜ぶ様子を見て『これだ!』と直感しました」

それからは、仕事の出勤前と帰宅後に、ひたすら練習を重ねた。平日は造園屋の仕事、週末はイベントでマジックやバルーンアートを披露するように。こうして37歳でバルーンアートを始めた中山さん。この後、思いもよらぬ出会いから、日本一のバルーンパフォーマーへと駆け上がっていくことになる。

衝撃を受けた、300円のバルーンアート

きっかけは、地元・藤沢のお祭りだった。中山さんが何気なく露店を見て回っていると、一人の女性がバルーンアートのブースを出店していた。彼女が作っていたのは、子どもが喜びそうな花の形のブレスレットなどで「1つ300円」と書かれたポップを見た瞬間、衝撃を受けた。

中山さん制作の花のバルーンアート(中山さんより提供)

「当時僕は、お客さんへのプレゼントとして、無料でバルーンアートを配っていたんです。だから、同じような風船を有料で販売していることに対して、ものすごい違和感を覚えて…。正直に言うと、ちょっと変な目で見てしまっていました」

後日、その女性がワークショップを開催すると知り、好奇心から参加することにした。終了後に思い切って話しかけてみると、同じ新潟出身ということですぐに意気投合。さらに、偶然にも住んでいる場所が近く、ホームパーティーにも呼ばれるように。

いざ顔を出してみると、集まっていたのはバルーンを生業とする人ばかりだった。そこで初めて中山さんは、彼女が幾度もの世界大会を制したバルーンアーティスト、細貝里枝氏であることを知った。

「世界チャンピオンに対して、自分はなんてことを考えていたんだ…!」

恥ずかしくなった中山さんは、初めて細貝氏に出会った日のことを詫びた。すると、彼女は「いいのよ。今の日本じゃ、誰だってそう思うから」と語り始めたのだそう。

「海外でバルーンアートのパフォーマンスをすると、楽しんでくれたお客さんは、その対価としてチップを支払ってくれるのだそうです。でも、日本はまだまだその文化が根付いていない。パフォーマーが日々勉強して、いくら技術を磨いても、対価を支払うパフォーマンスとして見てもらえない現実があることを知りました。『でも、その文化を醸成していくのは、私たちの仕事だ』と里枝さんは仰ったんです。その話を伺ってから、僕は無料でバルーンを配るのはやめて、募金などの対価を支払ってくださった方へプレゼントするよう、スタイルを変えていきました」

イベントでバルーンアートを実演販売した(中山さんより提供)

この出会いをきっかけに、中山さんは彼女を通じて知り合ったアーティストとともに、コンテストに出場するようになった。初出場にして準優勝を収めた結果「もう少し大きな大会に出てみないか?」と声がかかる。その大会こそ、日本一大きなバルーンイベント「JBANコンベンション」のコンテストだった。

国内最高峰の舞台で、仲間と掴んだ栄冠

「JBANコンベンション」は、年に一度開催されるバルーン業界の祭典で、コンテストでは熟練のプロたちによる熱い戦いが繰り広げられる。中山さんが誘われたのは、10名でチームを組み、5メートル四方の巨大バルーン作品を制作する部門。だが、参加する他のチームメンバーを聞き、思わずたじろいだ。

「自分以外のメンバー全員が、バルーンを本業にしている人たちだったんです。対して僕は、バルーンを趣味で楽しんでいるレベル。『造園屋の僕なんかが、その船に乗っていいんでしょうか?』と確認したところ、チームリーダーから『ちちさんの技術は必ず戦力になるから、ぜひ乗ってください!』と言われて。自分にとってはまさかのメンバー編成で、出場させてもらいました」

2013年に初出場したコンテストの結果は、7チーム中、堂々の1位。世界大会での受賞歴を持つ、強豪チームを抑えての優勝だった。さらに、翌年、翌々年も同部門で優勝し、チームは3連覇を達成。
「子どもたちを喜ばせたい」と趣味でバルーンアートを始めて10年。47歳にして、予想もしていなかったステージでスポットライトを浴びていた。

2013年に制作した優勝作品「タイムトレイン」(中山さんより提供)

「JBANコンベンション」への出場を機に、中山さんのもとにはバルーン演出を手伝う仕事が舞い込んでくるようになった。最初の仕事は移住のきっかけになったサザンオールスターズのコンサートの演出で、数十名のスタッフとともに、3時間で5万個ものバルーンを準備した。

「風船を膨らませていたら、リハーサルの音が聞こえてきてね。『あぁ、あの桑田さんが歌っている……!』とジーンとしていたら、実は息子さんだったらしくて(笑)」

並行して、誕生日や入学を祝うアニバーサリーバルーンや、ウェディングパーティーの会場装飾の依頼なども入ってくるようになった。

中山さん制作のアニバーサリーバルーン(中山さんより提供)

ここまで造園屋とバルーンアーティストの二足の草鞋で、ひた走ってきた中山さん。50歳を過ぎた頃、一つの願いが度々頭をよぎるようになっていた。それは「本当に好きなことを本業にしたい」という素直な想いだった。

「子どもたちも手が離れたし…造園の仕事、辞めてもいいかな?」

妻は半ば諦め気味だったものの「いいんじゃない」と承諾。かくして、2020年1月に長年勤めた造園会社を退職。52歳にして、第二の人生を華々しくスタートさせた…はずだった。

パンデミックが引き金となり、レジェンドへ弟子入り

「ここからはバルーン一本でいくぞ!」そう覚悟を決めた矢先、新型コロナウィルスによるパンデミックが到来。出演予定だったイベントはすべてキャンセル。バルーンを納品する予定だった入学式や卒業式なども次々となくなり、夏まで埋まっていた仕事がすべて白紙となってしまった。

「コロナはいつ終わるかわからない…。この先、どうやって生きていけばいいんだ」

緊急事態宣言で、予定していたイベントはすべて白紙になった(筆者撮影)

初めの1年は失業保険でなんとか食い繋いだものの、その先のプランが描けずにいた。
「独立したけど仕事がない」周囲に不安を漏らすと、イベント会場で知り合った、飲食業を営む仲間たちが手を差し伸べてくれた。

イベントに出店するお店やパフォーマーは、地域ごとに同じ顔ぶれが集まることが多い。何年もさまざまなイベントに出演していた中山さんは、自然と人脈が広がり、仲間たちとの信頼関係ができていたのだった。

「落ち着くまでうちで働かない?」「一緒に弁当屋を始めないか?」中山さんを心配した大勢の友人たちが仕事を紹介してくれたなかで「ちちさん、なんなら芋焼かない?」と声をかけたのが、焼き芋業界では「レジェンド」と称される、よっしーさんだった。

よっしーさんは藤沢で焼き芋専門店を開業し、現在は長野県内で「よっしーのお芋屋さん。」を2店舗営んでいる経営者。
「全国焼き芋グランプリ2020」で名誉実行委員長賞の受賞歴があり、現在は全国各地のイベントにひっぱりだこだ。

例に漏れず、中山さんもよっしーさんの焼き芋が大好きだった。
「僕でも焼けるんですか?」と聞くと、「焼けますよ。ちゃんとやり方も教えますから」とよっしーさんは太鼓判を押した。その答えを聞き、「あれだけおいしい焼き芋が作れるようになるなら」と、2021年2月に弟子入りした。

1本1000円以上の焼き芋を売る意味

中山さんはレジェンドのノウハウのすべてを、学びに学んだ。焼き芋はじっくりと長時間かけて焼くイメージがあるが、その工程だけがすべてではない。むしろ、焼くまでに必要な下処理に、意外なほど手間と時間がかかっている。

できあがった焼き芋は、蜜がじんわりと染み出している(筆者撮影)

まず、さつまいもを大きさごとに選別し、水洗いする。次に腐っているところや口当たりの悪い部分を、1本ずつ丁寧に取り除いていく。このあともう1工程あるが、ここは企業秘密。下処理の工程はすべて手作業で、ゆうに4時間〜5時間はかかると言う。

下処理がすべて済んださつまいもは、オーブンで3時間〜3時間半ほどかけて、じっくり焼き上げていく。ほくほくに焼き上がったら完成…ではなく、さらに寝かせることでより味わいを高めている。

ノウハウを教わった翌日からは、ひたすら自宅でさつまいもを焼く日々が始まった。
「これぞ」と思った焼き芋ができあがると、試食してもらうためによっしーさんのお店へ。アドバイスをもらうと家へ戻り、さらに試行錯誤を重ねた。

だが、修行の間に学んだのは、技術だけではなかった。
「いかに農家さんを守り、想いを伝えていくか」という、焼き芋屋としての心構えから教わった。

例えば、値札を見たお客さんから「高い焼き芋だね」と言われることは少なくない。けれど、どうしてその価格設定なのか、中山さんはできるだけ丁寧に説明するようにしている。

「理由は2つあって、一つは工程のほとんどが手作業で、かなりの手間暇をかけているから。もう一つは、農家さんから適正価格で、さつまいもを直接仕入れているからです。仕入れはよっしーさんを通して行っていますが、たとえ規格外のお芋であっても、適正価格で買わせていただいています。買い手がつかなければ農家さんはお芋の処理に困ってしまうし、かと言って二束三文で買い叩かれては、生産自体を続けられなくなってしまうかもしれないでしょう?」

さまざまなサイズのさつまいもを焼き上げている(中山さんより提供)

「さつまいも農家を守る」取り組みは、これだけではない。先の能登半島地震の際には、石川県珠洲市の生産者を支援するため、同市産の「珠洲かぼちゃ芋」の売上の一部を、直接農家へと寄付したのだ。

「ときどき農家さんに直接会いに行ったり、よっしーさんのお店に出向いたりして、さつまいものお話を聞くんです。焼き芋を販売するときに、作り手の想いや今年の出来栄えについて、ありのままをお伝えできるように。焼き芋屋が伝えてあげないと、農家さんの想いは何一つ届きませんからね」

自分の焼き芋に手応えを感じるようになったのは、弟子入りから2年後のこと。
「前に食べておいしかったので」とリピーターが訪ねてくるようになった。その後、よっしーさんの紹介で「ちちずいも」は全国規模の焼き芋イベントに出店するように。2023年は、赤レンガ倉庫で開催された「横浜おいも万博」。2024年は、お芋の聖地・川越で開催された「小江戸芋パーク」に出店した。

「横浜おいも万博」へ初出店(中山さんより提供)

焼き芋の世界に足を踏み入れて4年。中山さんが丹精込めて作る絶品の焼き芋は、今まさにじわじわと認知度を高めている。

三刀流の56歳店主が目指すゴール

コロナが収束し、以前の暮らしが戻った現在。中山さんは「焼き芋屋兼バルーンアーティスト兼ときどき造園屋」として活動している。造園の仕事は一度辞めたものの、昔のお客さんから「どうしても中山さんにお願いしたい」とリクエストがあり、引き受けているそうだ。

「友人と話していると、よく『ちちさんってどれが本業なの?』って聞かれるんですよ。でも、僕にとっては全部が本業。大谷翔平選手の二刀流を上回る三刀流ですよ、って(笑)」

50歳を過ぎてからパラレルワーカーとして働き続ける中山さんに「不安はないのか」と聞くと、「常に不安はつきまとっているが、自分の好きなことをやっている代償でしょうね。でも、安定したサラリーマンに戻る気は、100パーセントない」と即答する。

「ただのサラリーマンだったら、出会えていなかった師匠や仲間が大勢いますから。それに、前の自分より、ほんのちょっとだけかもしれないけど、バージョンアップしていると思いますし。動けるまで、働けるまで、この仕事を続けていきたいです。たまに『こんな暑い中、俺何やってんだろうな…』と思うときはありますけどね(笑)」

56歳となった今、中山さんの目標は、焼き芋とオーダーバルーンの店舗を持つこと。そのために、今日も中山さんは三刀流選手として、打席に立ち続ける。

「風船があってお芋がある、そんなお店ができたら」と語る中山さん(筆者撮影)

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