「共に復興を目指す同志に」能登で災害ボランティアに取り組む地元出身女性に迫る

「共に復興を目指す同志に」能登で災害ボランティアに取り組む地元出身女性に迫る
新田響子さん

石川県河北郡津幡町出身の新田響子さんは、今年の元旦に発生した能登半島地震の災害ボランティアに取り組む任意団体「能登半島支援チーム」の代表だ。これまで13年間にわたって災害ボランティアに取り組んだ経験とネットワークをもとに、地元の復興に尽くしている。

竹あかりの活動が縁で災害ボランティアに

新田さんが初めて災害ボランティアに取り組んだのは、2011年3月に発生した東日本大震災の時だった。

「当時、日系大手メーカーで勤務しており、栃木県宇都宮市に赴任していました。3月11日はまさに勤務中。約4分間もの激しい揺れで、人生で初めて死を意識しました。地球が壊れるかと思ったほどです」

すぐさま熊本から2人の友人が自家用車でやってきた。彼らは、竹あかり総合プロデュース集団『CHIKAKEN』の共同代表である池田親生さんと三城賢士さんだった。

「2007年8月頃のことです。当時お世話になっていた方の紹介で出会ったのが彼らでした。直感的に、この人たちは世界に行くなと思いました。それくらいの衝撃を受けたんです」

社会問題となっていた放置竹林。これに対して、ただ伐採するのではなく、穴を空けてあかりを灯す。そうしてできた竹あかりがイベントや地域の行事を美しく彩る。最終的には竹炭にして土に返すというSDGsの先駆けのような存在でもあった。新田さんは、この竹あかりを広めようと、地元石川でトークライブを行ったり、子どもたち向けに竹あかりを作るワークショップを行ったり。仕事として活動を手伝った時期もあった。その時からの縁だった。

「2人は東北に向かおうとしていました。私も誘われましたが一度は断って出社しました。でも、仕事が全然手に着きませんでした。自分は生き残って元気。一方で被災して苦しんでいる人たちがいる。やっぱり東北に行きたいと連絡したところ、ガソリンスタンドが長蛇の列で彼らは動けなくなっていました。たまたま私の車はガソリンを満タンにしていたのです。そこで、私の車で東北へ向かうことになりました」

東日本大震災の際に災害ボランティアをする新田さん

一般道で通行できる場所を調査したり、福島県郡山市の避難所でニーズ調査をしたりといった活動から災害ボランティアを始めた新田さん。その後、石巻市を中心に東北各地へ3年間毎週末通い、家財道具の運び出しやコミュニティ支援、子どもの遊び場づくりなど多岐にわたる活動を行った。

その後、2015年9月に鬼怒川が氾濫した常総水害や2016年4月に発生した熊本地震、2018年に岡山を襲った西日本豪雨や2020年に球磨川が氾濫した九州豪雨と、13年にわたって各地の災害ボランティアに参加した。

「竹あかりの活動でできたアーティストネットワークが、東日本大震災でのボランティア時に、名前とかはないけどゆるやかな災害ボランティアグループになっていました。それを母体に、熊本震災の時に一般社団法人熊本支援チームが立ち上がり、私もメンバーの一員として参加し、物資運搬やボランティア用の宿泊施設の立ち上げを行いました。また、西日本豪雨の時は、Take Actionという団体を自ら立ち上げて災害ボランティアに取り組みました。炊き出しや家財道具の運び出しからコミュニティ支援まで、幅広く活動をしてきました。私にとって災害ボランティアは呼吸と一緒です。意識はしていないけど、直感的に必要だからやっている。そんな感覚でした」

西日本豪雨の際に家財を運び出す新田さんたち

地元石川で被災。地元の人間がやらねば

そんな中、今年の元旦に地元石川で発生した能登半島地震。熊本支援チームのメンバーにも、新田さんを含めて被災したメンバーがいた。そんな仲間を助けようということで、すぐさま熊本支援チームのメンバーが能登に駆けつけた。

「災害ボランティアの本質って仲間を助けることだと思います。熊本支援チームの代表もよく言っていますが、全国に仲間がいて、互いが助け合う。これこそが究極の防災だと思います」

発災直後は、炊き出しや必要物資の運搬など生きるための支援を中心に取り組んだ。新田さんたち石川在住のメンバーは被災者でありながらも、災害ボランティアとして活動した。

「やっぱり、長く地域に残って活動していくのは地元の人間だと思います。そこで、石川在住の私たちが頑張ろうと思いました。3月頃から、生きるための支援から、家財道具の運び出しやコミュニティ支援といった次のフェーズへと支援ニーズが変化してきました。そのタイミングで、熊本支援チームの活動を引き継ぐ形で地元に若者が中心となって能登半島支援チームを立ち上げました」

倒壊した家屋での活動

被災者とボランティアの関係性を超えて

直近の活動の中心は、被災のため取り壊しになる家屋の中から家財道具を運び出す活動だ。ボランティアメンバーは、災害が無ければそのまま家族の歴史を紡いでいったはずの大切な品々を、思い話と共に大切に運び出していく。口コミなどで、団体に直接依頼してくる地域の方も少なくないという。地域の方々とボランティアスタッフの、助ける、助けられるといった関係ではないフラットな関係性が印象的だ。

「いろいろな災害ボランティアを経験した中で、やはり被災された方々は『こんなにボランティアの皆さんに手伝って貰って申し訳ない』という負い目を感じてしまうことが少なくありませんでした。そこで、私たちも助けてもらうことにしました。例えば、ボランティアスタッフの食事とか。夜ご飯作ってもらえませんか?って言うと、喜んで作ってくれる地域のお母さんたちが集まってきました。一緒に復興を目指す同志のような存在になっていっています。ボランティアが終わって宿泊拠点で夕食を食べるのですが、地域の方々も一緒に食事をすることも珍しくないです」

能登半島支援チームの活動には、地元の若者だけでなく全国からボランティアが集まり、その数は累計2,300名にのぼる。他の地域で災害ボランティアを経験した若者たちが、リーダーとなって地元石川で始めた活動が、また新たな経験者を生み出し、将来の災害ボランティアリーダーを育てているようにも感じた。

震災から9ヶ月経っても復興は道半ば

被災地を襲った水害。不足するボランティア

そんな中、9月21日に発生した水害。復興を目指す能登半島に大きな被害が出た。死者行方不明者が10名を超え、最大115か所が孤立し、断水や停電も続いている。

「元旦に戻ってしまったような状況です。水害の被害が大きい奥能登では、炊き出しや家の中の泥だしといった活動から始めています。生きていくための支援に取り組んでいます」

このような状況下だが、ボランティアスタッフが慢性的に不足しているという。家屋の取り壊し期限が迫り、住民の中には不眠不休で家財道具の運び出しを行う方もいらっしゃる状況だが、ニーズに対して人手が足りていない。

「発災直後に、ボランティアに否定的な言動が多く見られたことが影響したのか、ボランティアは常に足りていません。行政等からの支援要請を踏まえて活動しており、現在は七尾市内の家屋からの家財道具の運び出しのボランティアを10月11日頃まで募集しているのですが、1人しか参加者がいない日も少なくありません。水害のボランティアもぜんぜん足りていません。正直厳しい状況です。でも、ボランティアに来られない人もいると思います。寄付を集めてくれた方もいました。それぞれができる支援をやっていただけたら、私たちは嬉しいです」

日本列島に暮らす私たちにとって、災害とは決して無縁でいられない。次は自身が被災することもあれば、故郷が被災地になることもある。能登半島支援チームに限らず、様々な団体が能登半島地震や水害の支援活動を行っている。できることをできる限り。あなたの一歩を誰かが待っている。

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