「100文字で済むことを、2000文字で書く」という作家の岸田奈美さん。
中学生のときに父親が亡くなり、高校1年生のときには母親が心臓病で車いす生活になってしまいました。また、弟はダウン症、そして認知症の祖母もいます。
その生活を「楽しい」「悲しい」など一言では表せない日常の出来事をエッセイにしていたところ、SNSで注目され人気を集めました。
そして『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』と綴ったエッセイは原作としてドラマ化もされています。
今回はそんな岸田奈美さんに、自身の体験を力強くそして面白く発信していく理由や思いについて聞きました。
父が突然亡くなり、母は車いすに…
奈美さんの父は、中学2年生のときに突然亡くなります。そんな父に対して「当時、自分自身が反抗期でケンカしたまま別れが来てしまい、後悔を含めてつらさが続きました」といいます。
父が亡くなってから3年目、今度は母が大動脈解離で倒れました。医師から大動脈解離は8割の確率で手術中に亡くなってしまうと伝えられていましたが、一命をとりとめます。
※大動脈解離…大動脈の血管壁が裂け、血液の通り道が、本来のものとは別にもうひとつできた状態です。その結果、胸や背中に激痛が走り、大動脈が破裂したり、多くの臓器に障害をもたらしたりする重大な合併症を引き起こします。放置すると命にかかわります。
しかし下半身に障害が残り、車いす生活になりました。
「車いすの人はたくさんいるから母が生きていたことに関しては嬉しかったです。でも、歩けていた人が歩けなくなったことは想像を絶するほどつらく、しんどかった。なんでこんなに頑張って手術も耐えて2年以上も病院にいて、それでも生きていこうとしている母が歩けないつらい思いをしなければならないのだろう…と思いました」
また「なんで私だけこうなんだろう。神様はいないのかも…」と悲しみました。そして、下半身不随のつらさを目の当たりにし「なんなんだろう…この世の中は」と当時の気持ちは怒りにも近かったと振り返ります。
それでも生きていかなければならないと思ったため「とにかく母が生きていてよかったと思えるような道を探すにはどうしたらいいのかと模索していました。私が何とかしなきゃという思いでした」と話します。
母の思いと奈美さんのサポート
奈美さんの母は2年ほど入院していました。病気を治療するためでもありましたが、リハビリをものすごく頑張っていたといいます。そして、本当はそこまでできなくても退院できるはずなのに、お手洗いなど身の回りのことはある程度できるようになってから退院しました。
また、家がバリアフリー化してからは料理なども自分でしており、手だけで運転できる免許を取得し自分で運転できるレベルにもなります。
「今考えると、身の回りの世話を学生である私にさせたくなかったのかなと思います。母のなかで家族に任せたくない一線があったのでは…。母の努力のおかげで私は介護をほとんどしていません。したことは高いところにあるものを取ってあげること、外食したときにバリアフリーではない場所で車いすを持ち上げてあげること、車いすを車に積み込む練習に付き合ってあげることくらい。そのため母が車いすになったことで生活に困ったことはあまりありませんでした」
しかし、身の回りや介護のことではなく、母の精神的な部分を支えていきたいと思ったといいます。
母はいつも「歩けなくなってごめんな」「本当はもっとやってあげたいこととかあるし、父が亡くなって大変なのに私のことで心配かけてごめんな」と謝っていたのです。
また、車いすで入れないお店や階段があるお店に出かけたときに「奈美ちゃんがお店の人に謝らなきゃいけないやろ?お店探すのも大変やろ?ごめんな」 と謝ることが多かったといいます。
「基本的に母は元気で明るく面白かったけれど、母がメンタル的に落ち込んで、後ろ向きなときに支えられることってなんだろう?と常に感じていました」
自由なダウン症の弟
そうした中で、弟だけは自由だったと話します。
弟はダウン症のため、中学校までは普通の学校、高校は特別支援学校、その後は作業所へと通っていました。
「弟は弟の人生を彼なりに精一杯生きていました。弟は常に自身の生活で精いっぱいだったので、母へのサポートは一切していません」
また作業所についてこうした問題もあったと奈美さんは話していました。
「作業所もさまざまな特性がありました。劣悪なところは障がい者だからと言って鍵をつけられたり、ここから出ないでくださいと言われたり、いじめとは言わないけれど、厳しい軍隊のような環境になっていました。 弟は行きたくないから作業所に対して不登校になり、1年くらい外に出ない時期もありました」
それでも、弟はうまく話せない、世間のことがよくわからない中で居場所を見つけていくことを頑張っていました。そのため、奈美さん家族は「弟が作業所に行きたくないというので、なんで行きたくないのか、作業所で何かあったのかな、じゃあ合う作業所探そう!」と奮闘して探したといいます。
「ヤングケアラー」に対する奈美さんの考え
家族にケアを必要とする人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子どものことを「ヤングケアラー」といいます。
母が車いすになった当時、奈美さんは高校1年生。ヤングケアラーという認識はあったのかについて聞いてみました。
「ヤングケアラーという言葉で表すとしたらそうなのかもしれないな…とは思っています。支援を受けるべきかもしれない困りごとを抱えている人っていう言葉としては理解できます。けれども、支援されるべきなのにされてなくてかわいそう、家族に障がいを持った人がいて不幸だという目線で見られることに違和感がありました。ヤングケアラーという言葉にかわいそうという意味が結びついている気がします」
そして奈美さんは母との出来事について教えてくれました。
「母が歩けなくなって『死にたい』と吐露し、それを聞いて私も一緒に死ぬと言ったことがあります。悲しいことでしたが、私と母の今の関係性からすると絶対あったほうがいい出来事のうちの一つでした。あれがあったから隠しごとが今ではまったくありません。どれだけ苦しいことがあっても打ち明けられる相手がいる幸福を知ることができました。だから私が自殺することは絶対にありません。『死にたいって思ったら、死んでもいいよ、それぐらいつらいのはわかるから。そこから一緒に考えよう』って言ってくれる人が身内にいる時点で私の人生は強いんです」と母との関係性を話します。
一方で「じゃあ母が車いすじゃなかったら、これって起きなかったことだよね」とも考えます。
「結局、その人生が幸せかどうかっていうのはヤングケアラーかどうかは関係なくて、その人が自身の過去をどう捉えて人生を生きているのかということだと思います。私はヤングケアラーだったとは思っていないし『ヤングケアラーでかわいそうだったんだね』と言われると、今でもめっちゃ傷つくし、怒るし悲しくなります。ヤングケアラーの子たちは最初は家族のことが好きでやってるんです。家族の役に立ちたい、喜んでもらいたい、周りの人はそこまで自分の家族のことを愛してくれないから自分だけは家族を愛したいと思っています。でもそのことに対して『かわいそう、大変、つらいよね…』と同情されると一瞬で心を壊してしまうんです。ヤングケアラーという言葉がその子の人生の価値を決める言葉であってはいけないと思います」
家族のことを前向きに発信していく思い
家族のことを前向きに発信していく理由を聞くと「単純に面白いからかな…だから発信は自分のためにやっています」と笑う奈美さん。
「すごく苦しくてつらくて悲しい経験は、一周回って『よくこんな中で生きてきたな、よくやったよね』って思うんです。そして 『ちょっと聞いてや』と人を笑かそうとするくらい、他の人に聞いてほしいという気持ちになってきます」
自分1人で抱えていたら悲劇のままだったけれど、そうやって話すと喜劇になり「ようやったよね!自分」と思えたのです。
根底には悲しさや怒りもあると思うけれども、不幸そうと思われることはすごく嫌なので「面白い話って聞きたいよね、私も面白い話をしたいし」という気持ちで発信を続けているといいます。
弟に仕事が舞い込む出来事が…
奈美さんが本を出版したときに、弟が手書きしたページ番号を取り入れました。本の良さや温かみを全部知り尽くしている、装丁家の祖父江慎さんが「このエッセイには弟でしょ」と提案してくれたといいます。
「同じ数字の1でもエッセイのページごとに全然違い、すごく味があるなと思いました。でも世の中が思っているほどの姉弟の感動はなく、すごいな、よく頑張ったなと思う一方で、なんでおまえが褒められんねんという悔しさもありました(笑)」と冗談を交えながら当時の心境を笑顔で話します。
その後、奈美さんの本がきっかけとなり、弟に仕事が舞い込んできたのです。
それは「ほぼ日手帳という商品の、カレンダーの数字を書く」という仕事。そのことに対して、奈美さんは「すごいな~、これはおもろいことなるで~」と思ったといいます。
また、弟は作業所に通っていますが、最低工賃はあるもののそれはお昼代・弁当代程度のお金にしかならないことを話し「自分で稼いだお金を使うという体験を弟はしていないので、消えてもいいお金(自身のお金で余暇を過ごすためのお金)を使う体験ができたのはとてもよかったです。私自身が買い物を楽しいと思うから、この楽しさを弟も楽しいと思うかどうかはわからないけれど、楽しむためのチャンスを持てたのはとてもよかったなと思います」
そして、弟の手書きの文字を使った商品が完成しました。
奈美さんこの仕事を通じて、弟の集中力の短さについても初めて気づくことができました。1時間ももたず、30分やると嫌になって途中でやめてしまうのです。
それに対し「今まではわがままだと思っていたけれど、ダウン症の弟にとって文字を書くということは、手を動かしたりお手本を見たりしながらやるということで、とても大変なこと。私が見ている世界とは違うから疲れるんだろうなという共感を持つことができました。これは弟の作業を見ないと気づけないことだったなと思います。弟の仕事ぶりを見る姉は世の中にほとんどいないと思うけれど、弟の仕事ぶりを初めて見れて知らないところを知れました」
大事なコミュニティーである就労継続支援作業所
奈美さんのXには、作業所で仕事をする弟の日給が500円だったことが投稿されています。この投稿には「工賃が低い」というコメントが多く寄せられていました。
就労継続支援作業所にはA型・B型があり、奈美さんの弟が働いているのはB型作業所。
奈美さんは作業所があることは本人にとっても、障がい者を支える家族にとってもありがたいことだと言います。
家以外の場所に日常生活を送る場所があり、障がい者年金もあり、暮らしていけるなら日給はまったく関係ないと思うのと重度障がい者の支援の日給については違和感は抱いていません。
お金をもらうことが価値なのではなく、コミュニティー(自身のことを理解し合える関係)が大事なのです。
その一方で、支援員の方の日給の方が問題だと考えていると話す奈美さん。
「重度障がい者の支援職である支援員さんが日本で一番クリエイティブな仕事だと思います。見えているもの・こだわり・ルールも違う人の思いを想像してどのようなことに困っているのか、言葉にならないところまで汲み取ってサポートするという高度なことをしているのです。日常生活を送って社会とつながる訓練をする場所と考えると、それを整える人の役割は大きいと考えます。A型作業所の人はお金を稼ぐ場所だから、そこは一生懸命働いた人がお金をもらえるようにしてほしい。何のためにその施設があるのか、何がその人たちにとっての幸せなのか考えることが重要です。弟にとってもお金を稼ぐことが必ずしも幸せではないはず」
「自分のことを理解しようとしてくれている人たちと過ごせる自信というのはお金では買えない」といいます。
※就労継続支援A型…一般企業などで働くことが困難であるものの、一定の支援があれば雇用契約に基づいて働ける方を対象にしたサービス。
※就労継続支援B型…一般企業などで雇用契約を結んで働くことが難しい方に対して、就労の機会や生産活動の場を提供するサービス。
依存する先を外で増やすこと
祖母が認知症になり、母が病気で入院したとき、奈美さんは「戦略的一家離散」をテーマにあげました。
離散というとネガティブな印象がありますが、奈美さんの考えは「離散=自立」だといいます。自立は金銭的なことではなく「依存する先を外で増やすこと」でした。
これまで家族は家族の中だけで信頼し合って絆を作って、支え合って生きていくという考えを持っていましたが、家族に頼っていると安心して他人への頼り方を忘れてしまうといいます。
そこで奈美さんは仕事に集中するためにも、一人暮らしをする決断をしました。また弟はグループホームで知的障害のある方と暮らし、祖母は認知症の人の施設で暮らし、母は実家から離れた場所に仕事場を借りたといいます。
「優しくしたり愛したりするのって、自分の心に余裕がないと絶対にできないんです。愛するということは四六時中一緒にいて責任をもって受け入れるのではなく、自分も相手も心の余裕を持てる距離を探ることだと思います」
それは奈美さんの考える「家族を愛する工夫」のひとつでした。
家族という確固たる味方がいるからこそ、あえて外で味方を作り家族の外でそれぞれ自立することが大切だと考えた奈美さん。
「それぞれの場所でそれぞれの味方を作ろう。人に頼る練習をしよう。家族以外に弱音を吐いて家族以外の人で味方を作ることを、家族それぞれやろう。そしたら誰かが倒れても死んでも生きていけるようになるから」
とくに弟は慣れない場所だったので不安で戸惑ったようですが、これまでと全然別の友達を作ったり仲良くなったりして、家族が汲み取ってあげるしかなかったつらいことや、苦しいことを自分の言葉で話せるようになったといいます。
「痛みや寂しさも最初はつきもの。でも、家族という確固たる味方の場所があるからこそ外で思い切ったことができ、自分の幸せを追い求めることができるんだと思います」
そして週末は家族で集まって愚痴を言い合ったり、励まし合ったりする。
「遠くにいたとしても、関わろうとしてくれる”圧倒的味方”ということを自分の自信にしていく」これが奈美さんの考える「自立」なのです。
それぞれがそうした行動をしていく中で、切羽詰まったりトラブルに巻き込まれたりしていく中で面白かったことなどを奈美さんはエッセイにして読者におすそわけをしていると話していました。
誰かの行動が変わるような影響を与える作品を
奈美さんの今後の目標は、まずはエッセイを書き続けていくこと。
「エッセイは私の呼吸のようなものです。ずっと書き続けていきたい。でもエッセイだけでは伝えられないこともあったり、あまりにも近すぎて人物をそのまま出してしまうとプライバシーを侵害することもあります。なのでエッセイだけだと支えきれない要素を賄えるように小説や脚本を書くことでフィクションの世界の物語を綴っていった先に、結果的に私の弟や母が楽しい気持ちでいられるものを書いていきたいです。ヤングケアラーを支援する、助けるではなく、ヤングケアラーかもなという人が隣にいたときに、岸田さんの小説でこんなの読んだな、主人公がこんな行動してたなと思い出して行動が変わるとか、 誰かに影響を与えることができたらなと思います」と話していました。
奈美さんのエッセイを読んだ人からは「大笑いをしながら…泣きながら読みました!」「気持ちが救われました!」「奈美さんの行動力、ユーモアは天才です!」などたくさんのコメントが寄せられています。
「人生はひとりで抱え込めば悲劇のまま、でも人に話して笑わせれば喜劇になる」そうした思いで日々の出来事を書き続けている奈美さん。温かい言葉には、自然と惹きつけられます。これからもたくさんの人を笑顔にしていくことでしょう。