「島を持っている人と一緒になりたい」と言い続けて、夢を叶えた女性がいる。崎山順子さんだ。その島とはフィリピンのカオハガン島。約37年前に夫となる崎山克彦さんが購入し、島民と共に暮らしてきた。日本で元キルト講師をし、島へ移住後は島民とキルトを作る活動を始めた。小さな輪が島の生活を変化させ、世界中に知られるキルト作品になった。キルトを島の産業にまで発展させた崎山順子さんに話を伺った。
夢は声に出して言うものよ
某日、JR鎌倉駅で筆者の到着を迎えてくれた崎山順子さん。順子さんと夫の克彦さんは、カオハガン島と鎌倉に自宅があり、両方を行き来する生活をしている。今回の取材は鎌倉で行った。
順子さんは1949年生まれの現在75歳、東京で育った。
「ずっと自然の多い場所で暮らすことに憧れていました。それと俳優のマーロン・ブランドや、作家のミッキー・スピレインが大好きでね。彼らに共通するのが、島を持っていること。だから島を持っている人と一緒に暮らすことが夢だったの」
「島を持っている人」は稀だろう。その人と会うことが出来るなんて、どれほどの確率なのか。ところが順子さんはある日「島を持っている男性」と出会い、夢が現実となった。
出会いはこうだ。1973年、順子さんが24歳のときに旅行でパリを訪れた。帰りの飛行機で、たまたま隣の席だった男性と親しくなり、その後1991年に「島を持っている男性」の崎山克彦さんを紹介されたという。その飛行機の男性と克彦さんは仕事を通して知り合いだったのだ。順子さんから「島を持っている人」に会ってみたいと聞いて、日本で引き合わせてくれた。
「彼と会う前は島を持っているなんて、やっぱりゴージャスな雰囲気をした人かな、と想像していたんです。実際会うと素朴な方でした。カオハガン島が自分の島になっても、元々住んでいた島民の生き方を尊重しながら一緒に暮らしている話も聞いて、共感しました。また、私は『小さな島だと温暖化でいつか海に沈みませんか?』と聞いたんです。そうすると彼は『沈んでいくカオハガン島の椰子の木の頭が、海の上に出ているのを見てみたい』と言ったんです。あまりにも予想外なその発想に、私は惚れてしまいました」
こうして順子さんは崎山克彦さんの思いや人柄に惹かれていった。
「初めて島に行ったとき、船を降りると1匹の犬が私の後を付いて来たんです。毛が黒く、顔が四角、耳と目が小さい、まさに私の理想とする犬だったんです。実は、このことが移住の最後の決め手だったと思います(笑)。夢は口に出せば叶うものだと思いましたよ!」
フィリピンのカオハガン島はセブ島から船で南に約30分。コバルトブルーの海の中に、こんもりとした深緑色の椰子の木が生えた小さな島だ。1987年に崎山克彦さんが購入し、1992年、順子さんが42歳のときに移住した。
キルトとの出会い
「私は背が低くて、体も細く、静かな子どもでした。幼稚園のときはいじめられっ子で、いつも泣いていて。そんな私を母は引きずって連れて行ってましたね」
順子さんは、幼少期をこう語ってくれた。しかし小学校のとき、同じように小柄な体格にもかかわらず活発な子と出会い、その女の子に憧れて徐々に変わっていったという。
中学生のとき、友人がアメリカの『セブンティーン』という雑誌を定期購読していた。当時、輸入雑誌は珍しく、一緒に見せてもらっていた。そしてあるページに載っていたキルトを見たとき、目と心が奪われた。
「モデルさんが、キルトのかかったベッドの前でポーズをとっていたの。これが初めてキルトを知った瞬間でした。こんなきれいなものがあるんだと驚き、自分でも作りたいと思いました。キルトのベッドカバーを作れば、家にたまっていた残りの布を片づけられる、と大発見した気分でしたよ」
すぐにキルトを作るため、アメリカのパッチワークの本を買った。日本にはまだキルトの本はなかったのだ。キルト制作には小さな布が沢山必要だが、順子さんの家にはすでに十分な量があった。なぜなら自分の小柄な体型に合う市販の服がなく、下着から洋服まで手作りしたときの布が余っていたのだ。そしてそれらの処理に困っていた。キルトを知って以来その虜になり、さまざまな色や柄の布を合わせて、自分の好きな模様を夢中になって作った。
キルトが仕事に
幼少期から服飾に興味があった順子さんは、自分の服を作る方法もユニークだった。あらかじめ親指の先から小指の先までの距離、肘から手首までの距離などを採寸しておく。そしてブティックで気に入った服を見つけたら試着室に入り、指を広げて服の寸法を測った。試着室を出てから、すぐに測ったサイズとデザインをノートに記入した。こうして自分にピッタリでお気に入りの服を手作りしていた。
高校卒業後は専門学校で服飾の基礎を学びたかった。しかし、父は反対し、大学へ行くことを希望した。
「当時の私は父に反抗していたので、結局大学へは行かず、自分で専門学校の学費を稼ぐためにアルバイトをしました」
こうして20歳になり、セツモードセミナーという学校に入学した。日本におけるファッションイラストレーターの草分け的存在である長沢節(ながさわせつ)が開いた東京新宿にある美術学校だ。順子さんはここでスタイル画を学んだ。スタイル画とは、人物がポーズをとっている絵のこと。ファッション業界ではこの絵を用いて、新しい洋服のデザインが紹介される。この学校では自由に絵を描き、それを長沢先生が見守るスタイルの授業で、順子さんはとても気に入っていた。
学校で学んだことを活かして仕事は、衣服をはじめ、建物の外観や室内を描くパースペクティブなど、デザイン関係に従事した。36歳のとき「ハーツ&ハンズ」という学校の講師になる。これは順子さんの友人が始めたパッチワークの学校だ。その5年後、校長に就任して移住までの2年間務めた。
カオハガンキルトの始まり
1992年、カオハガン島へ移住した当初は、順子さんは島でのんびり暮らすつもりだった。しかし次第に島でも住民とキルトを始めてみたいと思うようになった。ただ最初は誰も関心を示してくれなかったのだ。
「大人たちは『そんな難しいのはできないよ』と言って、麻雀とおしゃべりをするばかりでした。最初に教えてほしいと言ってきたのは、隣のマクタン島から来ていたクララという女性だったんです」
順子さんはクララに日本で教えていたように丁寧にキルトの制作方法を教えた。しばらくしてクララがマクタン島に帰った後、完成したキルトが送られてきた。カオハガン島を離れても、まだキルト作りを続けていたことが嬉しくて、順子さんはクララの家を訪問した。
「クララの作ったキルトが家のあちこちにあり、生活の中で使われていたことに驚きました。その中の一枚をカオハガン島に持ち帰って、宿泊施設のある母屋の壁にかけてお客さんに販売してみたんです。それはお世辞にも綺麗とは言えないぶかぶかのキルティングだったので、結局誰も買ってくれなかったんですが。だけど、毎日見ていて私が好きになってしまい、買い上げてしまいました(笑)」
すると思ってもみないことが起こった。
「キルトを作るとお金になる」ということで、10人ほどの女性がキルトを作りたいと言い出したのだ。
「私は島民に基本からきっちり教えようと思い、紙、鉛筆、定規を用意しました。でも、小学校2年生以降の学習をしていなかった彼女たちには、それらを使って製図を描くことは難しかったんです」
島の大人たちが子どもの頃は、現地の小学校が2年生までしかなかった。3年生以降は他の島へ通わなければならなかったが、そこまでする島民は少なかったという。せっかくキルトに興味を持ってくれたものの、日本で教えてきた方法のままでは難しいことがわかった。そんなとき、クララの作ったキルトを眺めていた順子さんはあることに気がついた。
「クララが何か変わった方法で作っていると思ったんです。その方法を尋ねてみたら『定規や紙は面倒なので使わず、適当に布をカットし、ただ縫い合わせた』と言うのです」
クララには定規や鉛筆を使う方法を教えて上手く使っていたが、いつのまにか独自の方法を編み出していた。道具を何も使わずに作ったことを順子さんはとても驚いた。日本では考えたこともない。
順子さんはこのとき、日本で「ハーツ&ハンズ」の校長をしていたときに出会った「アフロアメリカン・キルト」のことを思い出した。このキルトを作る人たちは、ルールに縛られず、布と遊ぶ楽しさを大切にしているようだったという。不規則だが、踊っているような躍動感がある独特のキルトが作り出されていた。
このことを思い出した順子さんは、島民たちへも「適当にカットして作る」方法に切り替えたという。すると徐々に自分達の方法を見つけて取り組み始める姿があった。
「カオハガンのキルターたちを見ていると、柔軟な頭や心が感じられるんです。デザインを勉強したことはないけれど、自然に美しい構図を生み出していくんです」
教えないスタイルから生まれた「ストーリーキルト」
1997年、順子さんがしばらく日本に帰国し、久しぶりにカオハガン島へ帰ってきたときのことだ。
「小さなキルトが私の部屋にたくさん積まれていたの。それを一枚ずつ眺めていたら、島の本当の生活が見えてくるようで。ひょっとしてこのキルトには、お話があるんじゃないかと思って、キルターたちに聞いてみたんです。そうしたら『あるよ』と言うんです」
キルターたちの日々の出来事や心の中の思いがキルトに綴られていると知って、順子さんは驚いた。「ある日、私はここで〇〇をした」というシンプルな内容だが、とても素朴で彼らの生活がリアルに感じられた。
「椰子の実を割る」というジョセフィン・ナノイさんの作品がある(写真)。
「友達3人で、近所の家の椰子の実をとって、林に行った。木の持ち主には怒られたが『返しなさい』とは言わなかった。私たちはとても喉が渇いていたので、すぐにココナッツジュースを飲みたいと思った。硬い実を岩で割って、盗んだことを『ごめんなさい』と心の中で言い、急いで飲んだ。本当に喉が渇いていたの」
少女たちの日常で起きたエピソードの一場面を表したキルトだ。ココナッツジュースを飲むまでの話を知ると、さらにキルトにおもしろみがわく。
ポリッサ・スマリノグさんの作品「彼が待っていてくれる」(写真)は初々しいストーリーだ。
「私の彼マリーノは漁師。舟も持っているし、アヒルも飼っている。鶏や犬もいる。大きな椰子の木も植えてあるし、家も新しく自分で建てた。そうやって私を待っていてくれる」
彼と楽しい日々を表現したキルトだ。上手に縫おうとか、綺麗に仕上げるとか邪念がなく、素朴さの中に美しい物語が感じられると、順子さんはいう。
こうして、カオハガン島での生活を綴る話が「カオハガンストーリーキルト」となった。
「教えないスタイルでここまできたことに、驚きました。島民から何を聞かれても「わからないよ」と答えていた私は、意地悪な先生だったかもしれない。でも『この道だけ』というのはないんですよね、いろいろな方法があるとわかりました」
根付いたキルトを存続させたい
カオハガンキルトの魅力は、一枚一枚がキルターの日常から生まれる風景や心情を写しているところにある。順子さんは制作方法を押し付けなかったため、キルターのオリジナルがより引き出せたと考えている。カオハガン島の自然に近い、素朴な仕上がりなのだ。
島の宿泊施設で販売を始めたカオハガンキルト、魅了される人は徐々に増えてきた。1997年にインターナショナル・キルトウィーク主催で、横浜のキルト展に招待されたことを皮切りに、各地で展示販売が広がっている。2009年にはアメリカのネブラスカ大学の「インターナショナル・キルト・スタディ・センター」にカオハガンキルトが永久保存された。このほか、フランス、スペイン、ニュージーランド、台湾、韓国、中国の展示会も大盛況だった。
今、島には60人のキルターがいる。一枚の売値の半分はキルターへと支払われ、残りは材料費、キルトを制作する小屋の維持費、各地への輸送費などに使われる。例えば、日本の通販サイトで販売されている150cm × 150cmサイズのキルトは22,000円、小物やバックなどもある。これらでキルター1人につき年間約20,000〜40,000円の収入だという。現金収入が月平均約20,000円のカオハガンの家計には大きな助けだ。
現在、順子さんは主に日本でキルト販売を行い、カオハガン島では現地男性と結婚した日本人の嘉惠さんがキルターたちを取りまとめている。嘉惠さんにキルトを通してカオハガン島との架け橋になっていることについて尋ねた。
「元々、私は日本の雑貨店でカオハガンキルトを販売していた立場から、島で管理側になった経緯があります。キルターたちとより深く関われる喜びがあったはずなのですが、いつの間にか、このキルトは売れそうだ、売れにくそうだと仕分けをしていました。でも結果は逆のときもあったんです。島のお母さんたち(キルター)は、そんなことなどお構いなしに、心地よい風に吹かれながら、自由に作っているんです。その姿を見てハッとしました。どのキルトも唯一無二の存在で、個性と愛の塊だと思い出しました」
移住して10年になる嘉惠さんは、日本でカオハガンキルトに出合ってから今までの思いを語ってくれた。順子さんが32年前に島で始めたキルト作りは、今こうして次世代に大切に引き継がれている。
この取材を機に、嘉惠さんにキルター歴30年のマティアマニラグさんへインタビューをしてもらった。
「はじめはアップリケが難しくてうまくいきませんでした。でも、植物、動物、特に海の生き物が生き生きとしている表情を描くのが楽しくて。大きな台風で家の屋根に穴ができたとき、夫とその穴を眺めながら、そこにどんなアップリケをしようか話したこともあります。つらいことも、キルトがあったから、楽しい発想に結びつけられました」
マティアマニラグさんは、今は島のキルトの先生をしている大ベテランであり、キルトが生活の中に根付いていることを語ってくれた。また、キルトの収入が子供たちの教育費に当てられたことも継続のモチベーションになっていた。今後は、彼女の持つ技術やアイデアを次世代に伝えていきたいと話してくれた。
島民にキルトを伝えた順子さん自身は今、カオハガン島と各地の展示会を往復しながら、キルターたちの思いと作品を届ける役割を担っている。
「カオハガン島のキルトの歴史が作られていくのを、リアルタイムで見られて幸せです。このキルトがこれからも世界中に広がることを私は夢見ています」