「ピーク時には、1日の来園者数が町の人口の2倍!」という花の観光農園がある。
広島県の中央からやや北寄りに位置する世羅町で、4つの観光農園を経営する「株式会社 世羅高原農場」だ。
2024年の春に開催された「世羅高原春の花めぐり」では、丘一面に咲き誇るチューリップや芝桜、ネモフィラ、藤などを見るために、大勢の人が訪れた。
各園に足を運んだお客さんの数は、4月上旬から5月中旬までに総計17万7,000人。過去30年間で最高の人数を記録した。
2024年5月末時点の世羅町の人口は1万4,722人。たった1ヶ月半の間に、町の人口の12倍もの観光客が訪れたことになる。
今回、インタビューしたのは、2024年に創業45周年、花観光農園として30年目を迎えた「株式会社 世羅高原農場」の代表を務める吉宗誠也さん。
今でこそ多くの農場ファンがつき、毎年入場者数が増え続けているが、ここまでの道のりは決して平坦なものではなく、何度も窮地を経験したという。
「自分の住んでいる地域が嫌いだった」少年時代
1976年に世羅町で生まれ、小中学校のときは地元で育った吉宗さん。
明るい口調で、農園への思いを熱く語る現在の姿からは想像できないが「当時は引っ込み思案な子どもだった」という。
現在、吉宗さんは、4つの観光農園の経営だけでなく、観光を通じた町づくりにも精力的に取り組んでいる。
「子ども時代から世羅町のことが大好きだったのでは」と推測していた。
ところが、インタビュー開始早々「子どもの頃は、自分の住んでいる地域がすごく嫌いだったんです」という言葉が飛び出してびっくり。自宅が世羅高原農場のそばにあり、小学校まで5キロも離れていたため、喘息だった吉宗少年にとって、毎日の徒歩通学がとてもしんどかったのだ。
中学校になると自転車通学になったが、自宅があるのは山のてっぺん。行きは下り坂だからいいが、帰りはひたすら続く上り坂。当時は電動アシスト自転車などなく、重たい自転車を押しながら坂道を上って帰らなくてはならず、登下校だけで体力を消耗した。
「なんでこんな山の中に住んでるんだろう。お店などがたくさんある賑やかな街に出たい」という思いが募っていった。
「スイッチ」が入った高校大学時代
ちょっとした転機が訪れたのは、高校生のとき。
中学校3年生の6月頃、進路について担任の先生から「近くの高校に行くのもいいし、地元を離れて、環境を変える選択肢もあるよ」と紹介されたのが、世羅町から50キロ離れた福山市にある、盈進(えいしん)学園だった。
このまま地元の高校に行っても小中学校と同じようなメンバーで「高校生活もこんな感じかな」と想像できた。それよりも「新しい環境に身をおいてみるのもいいかも」と思い、推薦入試を受けてみると合格。
引っ込み思案ではあったが、なんとなく殻を破りたい気持ちもあり、地方から通う学生のための寮で、全然知らない人たちと共同生活を送ることを選択する。
中学校までは喘息もあって体力がなく、積極的に何かをするという感じではなかった吉宗さんだったが、高校で寮に入りさまざまな人と「半強制的(笑)」に交わらないといけなくなったことで、少しずつ気持ちが前向きに変化していった。
入学して部活の体験入部があり「体力をつけなくては」と、たまたま仮入部したバドミントン部で、意気投合した生徒がいた。別のクラスだったが、一緒に動いていると楽しい。その彼と「一緒に入るか」という話になり、体育会系ど真ん中のバドミントン部に、正式入部する。
それまで運動が苦手だった吉宗さん。しかしいきなりハードな運動部に入り、半泣きになりながら朝1時間、授業後3時間の練習を3年間続ける。
ひたすら部活に明け暮れたことで、体も鍛えられた。
大学へ進学、そして思いがけない出来事が
もともと実家は養鶏場を営んでいたのだが、吉宗さんが高校生の頃、父親が近所の農園を引き継ぎ、花の観光も始める。近所で葉タバコを生産していた旭鷹(きょくほう)農園の人から「経営を続けるのが難しいから、やってもらえないか」と父に相談があり、引き受けたのだ。
旭鷹農園では、すでに葉タバコは栽培しておらず、広い畑の一角にビニールハウスを立てて、切り花を栽培して売っていた。養鶏で卵をスーパーや百貨店に卸していた父は、葉タバコを作っていた広い畑を利用して野菜を作れば、卵の販売網を使って野菜も販売できないか、などと考えていたようだ。
養鶏場では鶏のふんが毎日出る。「野菜の肥料として鶏ふんを活用することで、美味しい野菜が作れるのでは」と、大根などを植えるようになった。
そのようななか、卵を卸していた百貨店から「店の上得意様のために、世羅の野菜の収穫体験ができないだろうか」と相談を受ける。実施すると思いのほか喜ばれた。その頃「広い畑をそのままにしておくのも」と、一面にひまわりの種をまいてみたところ、見事なひまわり畑ができ、ちょっとした評判になった。
いくつもの出来事が重なったことで、本格的に花の観光農園を始めることになったのだ。
ただ、吉宗さん自身は寮に入って家を離れていたこともあり「父親が楽しそうに何かやってるな」というくらいの認識だった。高校卒業後も地元に帰ろうという思いはなく、いくつかの大学を受けたなか、国立信州大学に進学する。
数学が苦手だったため、文系の学部に進んだ。
「いずれ大阪や東京などの都市部で仕事する」という、ぼんやりとした目標を持っていたという。
大学がある長野県松本市は、目の前にアルプスの山並みが広がる、風光明媚な土地。大学でもバドミントンに明け暮れ、ドライブしながらあちらこちらの温泉をめぐり、充実したキャンパスライフを送っていた。
しかし、大学1年生の冬、父が亡くなった。
人生を変えるターニングポイントになった言葉
旭鷹農園を引き継いだ父親が、広い畑に、春はチューリップ、夏はひまわりを植えて観光農園をするようになってから、3回目の春を待たずして病気で亡くなった。46歳だった。
「これから観光農園を軌道に乗せていこう」という時期だったため、後継者がいるわけでもない。そして、もともと経営していた養鶏場もある。もちろん父を亡くした悲しみもあったが、今後のことを思うと「もうどちらも続けていけないかもしれない。これから一体どうなるんだろう」という不安も強く、ショックが大きかった。
父が亡くなった後は、母が養鶏場と農園を継いだ。吉宗さんはしばらく大学を休み、落ち着いてからも、手伝いなどでちょくちょく実家に戻っていた。
大学2年生の春のこと。
チューリップ祭りで人手が足りず、アルバイトとして園内で接客をしていたとき「あなた、ここの社員の人?この辺りに住んでいるの?」と、一人のお客さんから声をかけられる。
眼鏡をかけ、赤い服を着ていたその年配の女性は、エプロンをつけ園内の入り口付近で作業していた吉宗青年に「あなた、いいところに住んでいるわね!」と、勢いよく話を続けてきた。
「本当に花がきれいだったわ!空気もおいしいし、空も広い。世羅の野菜もおいしいのよね。私、お米もよく買って帰るのよ」と、話が止まらない。
そのお客さんによると、農園に来るとき道に迷ったのだが、道を尋ねた近所の農家の人が軽トラックでわざわざ入口まで案内してくれたらしいのだ。
「本当に有難くてうれしかったわ!ここのお花を見に来てよかった。あなた、これからも頑張ってね!」
お客さんがこの農園だけでなく世羅の町まですごく褒めてくれるのを聞いているうちに、吉宗さんの胸の奥がじんと熱くなってきた。それまではアルバイトということもあり、ただエプロンをつけて、漫然とレジを打つだけだったが、このお客さんの言葉を聞いているうちに心境が変わる。
「目の前の花畑を見て喜んでもらえて、自分の故郷のことも褒めてもらえる仕事って、すごく魅力的だな、と思ったんです。こんなふうに、お客さんが喜んでくれるのを目の当たりにできるんだったら、どんなしんどいことがあっても、やっていけるんじゃないかと、スイッチが入りました。それまで、とくに農園の仕事に興味を持っていなかったので、こんなにも心を動かされたことに、自分でも驚きましたね」と当時を振り返る吉宗さん。
そして大学卒業後、意気揚々と家業に就いた吉宗さんを待っていたのは、長い「スパルタ修行」だった。
「習うより慣れろ」ひたすら修行の3年後、20代で農園の代表に
吉宗さんは、農業に関する知識や経験がゼロ。質問すれば教えてもらえたものの「見て覚えろ」という時代だった。当時はインターネットも今ほど普及していなかったので、まわりの従業員の作業をひたすら見て覚えて慣れていく日が続いた。
高校・大学でのバドミントンで体力には自信があった。しかし、スポーツと農業の体の使い方はまったく別もの。日々慣れない作業で、泥まみれになりながら、早朝から日が暮れて暗くなるまで働く。
当時は福利厚生や給与体系が十分には整っておらず、1ヶ月ほぼ休みなしのときもあった。しかも、給料はどれだけ働いても基本給のみ。まさに、スパルタ修行のような日々が3年間続いた。
就農して3年が経つ頃、母が二足のわらじは大変だということで、吉宗さんが農事組合法人だった旭鷹農園の組合長に就任することになる。
しかし、肩書きはついたものの、やることはこれまでと変わらない。汗まみれになって、ひたすらお客さんに喜んでもらえるような花や野菜を作る仕事が続く。この3年間、働きながらさまざまな課題を感じていた。
より多くのお客さんに喜んでもらえるように、事業規模を大きくしていきたい。しかし、経営状態は少しずつ良くなってきたものの一進一退。これまでと同じことを続けていっても大きな展望が描きにくかった。
加えて、農園のメンバーは、葉タバコの時の経営時から長年働いている、自分の父親や母親と同世代の人ばかり。さらに高齢化が進めば、いつか限界がくる。今後「観光農園の仕事をしたい」と、この仕事に憧れて入ってくれる若い人たちが増えるといいな、と考えていた。
代表になったとはいえ、あれこれすんなり決められるわけではない。長年働いてきたメンバーとの、世代間での考え方の相違にも悩んだ。
全国にある観光施設の事例を参考に「お客さんに楽しんでもらえるような体験を始めるのはどうだろう?」「地元の食材を使って、何かメニューや特産品を作ってみては?」と提案するも…。
「じゃ、どうやったらできるんかのう?」「人が足りん」と言われると、経験不足もあり、なかなかみんなが納得できる方法を見出せない。
もどかしさを感じながら、落としどころを見つけ、取り組めるところから少しずつ進めていった。
代表就任1年目から「やるしかない!」と大改革
代表になり、改めて危機感をもったのが「観光農園」として「観光」も「農園(農業)」も大切なのに「農業」の方が重要視されていたこと。
当時、種をまき、花を育てる農業にはみんな力を入れて取り組んでいたが、観光に関しては「いい花を咲かせればお客さんは来るだろう」といった雰囲気だった。
もちろん、毎年美しい花を咲かせ続ける農業の技術向上も大切だ。しかし、それだけではなく、お客さんに繰り返し足を運んでもらうためにも「観光」の切り口からの魅力づくりや、来園した人に楽しんでもらい、喜んでもらえるような仕組みや仕掛けが必要だ。
相変わらず泥だらけになって働きつつ、ひたすら、さまざまな観光地の事例を調べたり、実際に足を運んだりしながら、常にアンテナを立ててアイデアを考え続けた。
一方、代表として会社を潰すわけにはいかない。数期分の決算書を読んで分析したり、自分の農園の方向性について考えたりしながら経営の勉強をした。昼は一日中畑で働き、夜は経営の本を読み漁りながら、思いついたことがあれば、手元の手帳に書きつけていく。
「もともと私は数字がすっごく苦手だったんですけど、今ではめちゃめちゃ得意になりました」と吉宗さんは笑う。
社内がなかなか一枚岩になれない葛藤も抱えつつ、吉宗さんが代表に就任してからの数年間で「修行時代」からずっと考えていたことを、思い切って進めていった。
1年目にまず進めたのが、報酬制度の改革。
「お客さんに喜んでもらうのが目的」とはいえ「いくら働いても同じ稼ぎ」では食べていけない。
そこで固定給を定期昇給にし、当時、春と夏の2回イベントをしていたため、成果に応じたボーナスを年2回出すことに。
「春、チューリップ祭でたくさんお客さんに来てもらえたらボーナスが多いよ。お客さんが少なかったらボーナスも少ない、もしくはないよ、という仕組みにしたんです」
そうなると、これまでの「お客さんは来ても来なくてもやることをやるだけよ」と、達観にも似たメンバーの意識が「少しでもたくさんのお客さんに喜んでもらって、たくさん来てもらおう」に変わってきた。
入園料も「花が咲いていないときは割引」「満開になったら満額」という料金変動制は維持しつつも、お客さんに安心して花を楽しんでいただき、イベント期間中の「観光の満足度」が長く続くように、花の種類や植える時期など工夫を重ねていった。それらの取り組みを通じて、安定的な収入を得られるようになってきた。
また、話題性も考えながらイベントを開催していくなかで、入場者数も右肩上がりに。徐々に変化の兆しが感じられるようになっていった。
清水の舞台から飛び降りるつもりで借金をして大改修
報酬制度や入園料などの次に取り組んだのは、園の施設や花畑の大規模な改修だ。生まれて初めて数千万円の借金をして、一気にさまざまな手を打っていった。
まずは長らく仮設だったトイレの建て替え。若い女性やファミリーにも気持ちよく安心して使ってもらえるようにし、授乳室やオムツ替えシート、車いす利用もできるようにした。
また、さまざまな客層のお客さんに喜んでもらえるよう、花畑の植栽面積を増やした。当時は珍しい花で、農園の誰も生育経験がないダリアの植え付けにチャレンジ。
1年目は台風の影響もあり大失敗だったが、そのときの教訓を生かして取り組んだ2年目には、当時のひまわりまつりとほぼ同じ2万5,000人のお客さんに楽しんでもらえた。
この頃、農園の名前も変える。
地域の名前を入れたいと思っていたところ「世羅高原」という通称が観光地のイメージとして定着し始めていたこと、そして、農業の開拓精神的なところを忘れてはいけない、という思いから「世羅高原農場」という名前にした。
代表になってわずか数年。20代で初めて数千万円もの借金をするのは、とんでもなく勇気のいることだったろう。
こわかったのでは?と質問すると「それはこわかったですよ。もともと大きく利益を出していたわけではなかったですし」と返ってきた。
例えば、工場で物を作って売る場合は「〇個作れるから、売り上げを〇円くらい伸ばせる」と具体的に見通しを立てられる。しかし、農業と観光は自然も関わってくることのため、お金をかけた分だけ返ってくるという保障はなく、リスクが高い。
「だけど、とにかくお客さんに喜んでいただく、満足していただく、ファンになっていただくということでしか、そのリスクを埋めることはできないので。社名も変更し、今後は地域の魅力を打ち出していく、ということで覚悟を決めましたね」
金融機関も「若い代表が『やりたい』と言っているけど大丈夫か?」と不安を見せていたそうだが、融資してくれたのは「どうしてもやりたいのでお願いします!頑張ります!」と訴える吉宗さんの熱意と覚悟が通じたからかもしれない。
代表に就任して数年、次々と改革をしてきた吉宗さんだが、新たな試みに異を唱えるメンバーも少なからずおり、すんなり進められたものはひとつもなかった。
だが、吉宗さんが大胆に、そして地道に続けてきたことが、入場者数の増加や売り上げ数など、成果が数字として目に見えるようになってくると、吉宗さんの提案に対して社内も「じゃ、やってみようや」というポジティブな流れになっていく。
【花はみんなをしあわせにする】という方向性に向かって、少しずつ農場がひとつになっていった。
1年にたった1度しかチャレンジできないから
吉宗さんの「まずはやってみる」という精神は、代表になって培われたという。
たとえば、目の前の一株のひまわりも、シーズン中は繰り返し花をつける品種もあるけれど、咲くのは夏の間だけ。つまり、ひまわりの植え付けから花を咲かせるまでの育成過程は、年に1回しかチャレンジできないのだ。
「こういうことをやってみたい」と思いついても、今年やらなければ、次にできるのは来年。だからこそ「やりたいことがある」とスタッフが相談してきたときは「いいよ、やってみよう」と、積極的に背中を押すという。
しかし、皆が最初から積極的にアイデアを出したり、農場やお客さんに強い思いを持っていたりしていた訳ではない。
適性を見ながら、入社して3~4年目の社員にもリーダーや植栽担当を任せることで、それぞれが思いを持って花畑のデザインや植栽、植栽管理、イベント企画運営、中長期の計画策定に関わるようになり、リーダーとしてどんどん成長しているそうだ。
彼らが思い切ってチャレンジできるように、経営全体のセーフティーネットとなるのが、今の吉宗さんの役割である。
現在、農場で働いている人たちのなかには、異業種から転職している人も増えている。そして、農場の社員26名のうち、半数以上が20代~30代で、全体の半分は女性だ。
吉宗さんが20代で代表に就任してから「観光農園の仕事に憧れて、ここで働きたいという人を増やしたい」と、少しずつまいてきた種が花を咲かせ、実をつけてきている。
「お客様に喜んでいただけるように」工夫と今後の展望
「旭鷹農園」から始まり、現在4つの農園の体制で進めている世羅高原農場グループの花観光。
それぞれに、季節を彩る花の絶景を届けている。
世羅町は、広島市をはじめとした都市部から「ちょっとそこのコンビニ行ってくる」といった散歩の感覚で行ける場所ではない。行こうと決めてわざわざ来てもらう必要がある。
だからこそ、初めて訪れたお客さんだけでなく、毎年訪れているお客さんにも、新たな発見や感動を味わってもらえるような工夫が必要だ。
そこで、4つの農園それぞれに、毎年新しい花を咲かせるチャレンジや、イベントのスケール感アップなどの取り組みを続けている。
例えば、世羅高原農場の2024年チューリップ祭では、サッカーグラウンド約9面分の65,000㎡に、200品種75万本のチューリップが美しく咲き誇った。
毎年テーマが変わるチューリップの花絵も「今年はどんな絵だろう」と、楽しみにしているお客さんが多いそうだ。
2024年も、9月中旬にFlower village 花夢の里で「コキアとコスモスの丘」を新しく開園するため、準備を進めているところだ。
広い園内には、歩き疲れたとき気軽に休めるよう、あちらこちらにベンチや休憩所、ハンモックなどがあるので、美しい花を眺めながらほっと一息できる。
筆者が訪れたときも、おしゃれなフォトスポットがいくつも用意されており、ファミリー、カップル、ペット連れなど、さまざまな層のお客さんが笑顔で思い出を残していた。
4つの観光農園が連携して、花を育てるのに適した冷涼な気候風土や大規模な丘の風景、周遊に適した施設間のアクセスなどを活かし、季節感やテーマ性のある花の絶景を複数巡ることができるのが、世羅高原農場グループの強みだ。
「『世羅に行けば、春、初夏、夏、秋、といろいろ見て回れる』と、全国の花の観光施設を見て目の肥えたお客様にも満足してもらえるような観光農園をめざしています」。
農場と町、全体を楽しんでもらえるようにしたい
「今後は、若いリーダーにどんどん仕事を任せて自分の仕事の余力をつくり、花観光農園だけでは実現しにくい『新しい観光』をつくりだすことにも取り組んでいきたいんです」と語る吉宗さん。
そのうちの1つは、訪れる人の目的が「花を見た後、ここにも行ってみたいな」と花の観光に加えてさまざまな来訪動機につながるように、世羅町の魅力ある観光資源や空き家などをリニューアルしていくことだ。町のあちこちに、行きたくなるようなお店や観光スポットを作っていきたい、と話に熱がこもる。
2018年には、吉宗さん個人の事業として、町内のシンボルである歴史旧跡の中の元宿坊をリニューアルした。
江戸時代に建てられた宿坊が、廃墟同然になっていたのを修繕し、そののちは、吉宗さんの妻の五十鈴さんが「雪月風花 福智院」を開業。広島在来茶をはじめ、地域の食材を使った甘味や精進料理などを提供している。
そして今現在取り組んでいるのは、世羅高原農場グループとして5つ目に手掛ける施設だ。
農場と町をつなぐ中間の場所に、季節営業の観光農園とは少しテイストを変えて、水辺の風景も楽しめるガーデン付きの森に、絵本ミュージアムを併設した観光施設を建設中。来春3月ごろのオープンを見込んでいる。
吉宗さんのFacebookには、美しいステンドグラスなどの画像が一部紹介されている。一体どんな施設が出来上がるのだろうか。
吉宗さん自身、父が亡くなったときや代表に就いてから今まで、風水害やコロナ禍による休業、信頼していた社員が何人も一斉に同業他社に入るなど、信じられないことやつらいこと、厳しい時期がいくつもあった。それでもチャレンジし続けられたのは、その都度、農場ファンのお客さんの支えがあったから。そして根底にずっと「世羅を元気にしたい、お客さんに喜んでもらいたい」という思いを持ち続けてこられたから。
吉宗さんは「大学2年生のアルバイトのとき、あのお客さんと出会っていなかったら、今は違う仕事をしていたかも」と、振り返った。
世羅高原農場では、まさに今、ひまわりまつりが開催されている。広大な園内いっぱいに植えられたひまわりは、まもなく見ごろを迎えるとのこと。
取材時にはつぼみだったひまわりたちも、2024年の夏にしか見られない見事な花を咲かせ、大勢のお客さんを笑顔にするのだろう。