原因不明の体調不良により、みるみるうちに容態が悪くなっていく生後4ヶ月の男の子ゆいとくん。人工呼吸器に繋がれ、一時は血圧がギリギリまで低下。両親は何度も死を意識する事態に直面しました。
前日まで元気に寝返りをしておっぱいも飲んでいたゆいとくん。彼を突然襲った病は「非典型溶血性尿毒症症候群」でした。
病名がわかったあとも家族とゆいとくんに次々と試練が訪れます。
この記事では、命の危機を家族で乗り越え、今を大切に生きているゆいとくんのこれまでについて、母親である@ahus.tamaさんに話を聞きました。
突然の体調不良
妊娠経過も問題なく、生まれたあとも健康に生まれ、元気に過ごしていたゆいとくん。生後4ヶ月になったある日、母親は「ウンチが緩いかなぁ?」と感じますが、その他はいつも通り元気に寝返りをうち、ゆいとくんはおっぱいも飲んでいました。
症状が出始めてから数日後、ゆいとくんの便が水様便に変わったため、近くの小児科クリニックを受診。
そこで簡単な血液検査をした際、医師から「白血球数が少し高いね…」「1歳だったら家に帰しちゃう数値だけど…生後4ヶ月だから、念のために大きな病院で検査した方がいいと僕は思う」と言われ、紹介された総合病院へその足で向かいました。
総合病院ではありとあらゆる検査(血液検査、便培養、MRI、エコー、骨髄穿刺)をするが、特別問題は見つかりません。
しかし、時間を追うごとに元気がなくなり、ぐったりしていくゆいとくん。
原因不明のまま夜になり、ゆいとくんの具合が急変します。43度の高熱で、大量の腹水が溜まり、翌朝には痙攣。
呼吸困難に陥り小児外科のある大学病院へ急遽転院することになりました。
ゆいとくんに施される数々の処置
大学病院に緊急搬送されてからも依然として原因がわからず、医師たちも手の打ちようがない状態。
その後「開腹して腸を見ましょう」と、緊急で開腹手術を行いました。
パンパンに溜まった腹水を取り除く処置をした際、腸を出して診察するも、それも問題なく、医師も首を傾げていたといいます。
そのままICUに運ばれ、母親が面会できたときには人工呼吸器と数え切れないほど沢山の管に繋がれていたゆいとくん。鎮静剤で寝かされ変わり果てた姿でした。
医師から「ご両親も身体を休めてください」と言われ、両親は一度帰宅します。しかし、深夜に病院から電話があり急いで向かうと、ベッド脇に整列した担当医師から「昇圧剤(血圧を上げるための薬)を3種類上限いっぱい入れてますが、もう身体が反応しません…」と頭を下げられました。
後々考えたところ「看取り」ということだったのだろうと母親は話します。
両祖父祖母、叔父叔母にも面会許可がおり、全員がベッドに集まりました。
誰もがゆいとくんを囲んで泣きましたが、母親は「きっと耳は聞こえているだろう」と思い、諦めずに耳元で励まし続けたといいます。
ゆいとくんはその後、奇跡的に一命を取り留めましたが依然として原因はわからないまま容態はさらに悪くなり、腹水だけでなく胸水も溜まったため、胸にドレーンチューブを刺して胸水を排出しました。
ステロイドを入れたり抗菌薬を入れたり(真逆の治療)しましたが、内臓が働かなくなり、排尿もされなくなってしまったため、全身に点滴の水分が溜まり続けることに…。その結果、6キロあった体重が12キロになるまで浮腫み、身体全体がブヨブヨになり、目からは黄色い体液が溢れ出ていたといいます。
両親の思い
見ているのもつらい様々な処置が増え、息子の体が管や針で傷付き、治療に耐える姿に両親は
「このまま治療を続けるのは親のエゴなんじゃないか?」そんな思いになりました。
「治療を中止した方がいいのではないか?」「こんなつらい治療を本人は望んでいるのか?」耐えられない状況に迷いを感じた両親は、泣きながら主治医に思いをぶつけたといいます。
物腰の柔らかい静かで穏やかな主治医が「お母さん、今はまだ諦めるときではないです。私は諦めていません!」とキッパリと言う姿に、患者と向き合う熱意を感じ、治療継続の意思を固めました。
やっとわかった原因
人工透析を24時間で回し続け、2週間が経過しました。
血液検査の結果、血液内に「破砕赤血球」がみつかり、ゆいとくんの病名が※「aHUS.非典型溶血性尿毒症症候群」と診断されました。
とても珍しい症例で、治療を進めるにあたって他病院と連携しながら「血漿交換」「輸血」を繰り返しましたがゆいとくんの容態は悪くなる一方でした。
※「aHUS.非典型溶血性尿毒症症候群」
aHUSは、遺伝子の変異により生まれつき補体のコントロールがつきにくい人が、感染や分娩、臓器移植などをきっかけに、補体の異常な活性化を来して発症します。その他にも、免疫の異常で補体活性化を抑制する因子の働きが低下する場合や、発症の原因がわからない場合も少なくありません。
補体の異常な活性化が起こると、本来傷害することのない、自分の体の血管内皮を傷つけるようになります。すると傷ついた血管内皮に血小板が集まり、血栓が形成されます。血栓により血液中の赤血球が壊れたり、血管をつまらせたりすることによって様々な臓器障害を引き起こします。中でも腎障害は発症の頻度が高い臓器障害です。以上の様にaHUSは血小板減少、溶血性貧血、急性腎障害を特徴とする病気です。
出典:難病情報センター
非典型溶血性尿毒症症候群(指定難病109) – 難病情報センター
命の危険と隣り合わせの投薬
しばらくして両親は「エクリズマブ(別名ソリリス)」というaHUSへの特効薬についての説明を受けます。エクリズマブは、国の許可がおりてから取り寄せ、投与するまで数日かかる特別な薬でした。
また、重篤な副作用があり、エクリズマブを投与することにより「髄膜炎菌感染症」を引き起こす可能性が、投与前の1000〜2000倍に上がります。髄膜炎は治療が遅れると、その日のうちに死に至る可能性もある恐ろしい病です。
本来なら、髄膜炎の予防接種を受けた2週間後にエクリズマブを投与するのですが、このときのゆいとくんの容態は非常に悪く、予防接種を待ってはいられないため、抗生剤を平行投与しながらエクリズマブを使用することになりました。
副作用は恐ろしいけれど、やらなければ助かる見込みがない状態。
ゆいとくんの両親は「この薬の副作用で、死に至ることがあることを十分理解しました」と記された同意書にサインしなければなりませんでした。
エクリズマブを数回投与した所で、血液検査の結果が若干上向いたようでしたが、入院当初からの大量の薬剤投与に、ゆいとくんの肝臓が耐えきれなくなってしまい投与を中止。
もう使える薬も新たに出来る治療もないということで人工透析を24時間回し続けながら、輸血と血漿交換を繰り返し行い、ゆいとくん自身の力で這い上がって来るのを待ちました。
ゆいとくんの障がいについて
入院当初から容態が悪かったゆいとくんは、頭部のCTを取ることができていませんでした。人工透析が始まり、少しだけ容態が落ち着いたところで初めて撮ったCTは、脳の半分が真っ白だったといいます。
その部分は、身体中に出来た血栓が脳で詰まり、脳出血が起きていた場所でした。
脳出血のCT画像を見せられたときに「脳ダメージ、左脳出血、脳萎縮」について医師からはサラッと説明があった程度で、詳細は語られなかったといいます。
急性期が明けて命の危機が落ち着いた頃、医師から少しずつ説明がありました。
•左脳出血は右半身や言語に障がいが出ること。
•血液の状態が非常に悪い期間が続いたことと、ショック状態に陥ったことによる脳全体の脳ダメージはかなり大きいということ。
•長期鎮静による脳の萎縮がかなり進んでいること。
(結局4ヶ月近くICUに入り、鎮静剤で寝かされ、人工透析を回し続け輸血を繰り返しました)
•それによりゆいとくんには重い障がいが残るだろうと予想されていること。
当初、医師がすべてを詳しく説明しなかったのは「きっと自分たちが病気や障がいについて受け止められる時期を考えてくれていたのだろう」と母親は話します。
医師はそれに付け加え「子どもの脳は力があり、予想もしない回復を見せることもある」「こればっかりは成長してみないとわかりません」と話しました。
ゆいとくんの未来に向けたこの言葉は、今でも医師から言われ続けているそうです。
最近になってカルテを取り寄せる機会があり、母親は初めてゆいとくんのカルテを見ました。
搬送された当日に【意識レベル最重度、今後なんらかの障がいが残ると予想される】と書いてあり「先生たちは最初からわかっていて、私たちに気を遣ってくださったんだなぁ」と涙が出たといいます。
ゆいとくんを支える家族の思い
ゆいとくんの体調不良は突然のことだったため、めまぐるしく変わる状況に、はじめは理解が追いつかなかった両親。
非典型溶血性尿毒症症候群の発症トリガーは、感染症や妊娠など人によりそれぞれあるそうです。
当時は「あれがいけなかったのか?」「これがいけなかったのか?」と、とにかく適切な治療を受けさせるために原因を突き止めたくて、医師ともありとあらゆる可能性を探る話をしました。
原因がわからない期間も、命が危うい期間も長かったため、前も後ろも右も左もわからないモヤの中のボートに乗っているようなそんな気持ちでいたといい、人生の中で1番断トツでつらい出来事だったと振り返ります。
何をしていても一日中涙が溢れ、どこかに行くとか、何かをすることも出来ない日が続きました。
面会に行く前に寄ったコンビニで、買い物をする杖をついたおじいちゃんを見ただけでも
「ゆいとはもうおじいちゃんになることも出来ないんだね」と、突然ワンワン泣いてしまったこともあったといいます。
2ヶ月ぶりに目覚める
透析を回し始めて2ヶ月以上経ち、状態が落ち着いてきたゆいとくん。医師から人工透析からの離脱と、鎮静から目を覚まさせて、人工呼吸器の抜管を行う説明がありました。
このとき医師からは「脳出血に加えて長期鎮静と長期の挿管のため、一度抜管はしてみるが、自発呼吸ができなければ、そのまま気管切開の手術に入る可能性が高い」と、手術の説明も受けたといいます。
ゆいとくんが抜管の処置中、両親はICUのロビーで待っていました。
その後、看護師さんが「ゆいくん自力で呼吸してますよーっ!!!」と教えてくれたのです。
本当は「患者の説明は医師から」というルールがありましたが、このときばかりは看護師さんもとても嬉しそうに話してくださったといいます。
気管切開の手術はせず、両親は2ヶ月半ぶりに目が覚めたゆいとくんに会うことが出来ました。
医師から「鎮静から覚ます」話があったとき「きゃー!!!!」と声に出して表現したくなるくらい喜んだというゆいとくんの母親。
嬉しさのあまり、ゆいとくんが気に入っていたキャラクターを見せようとコンビニに幼児雑誌を買いに走る姿に医師は不安を感じ「お母さんが想像する目覚めではないと思います。これだけ鎮静していたら首も座らない状態ですし、きっと目で人を追ったり、何かを見て認識したりは出来ないと思います」そう言いました。
しかし、CTの脳画像を見たときにもう「普通の生活」には戻れないことを覚悟していた両親。
「ゆいとがどんな状態であろうと、生きて戻って来てくれたことをたくさんたくさん褒めてあげようと思っていた」と母親は話します。
両親としては、シンプルに目覚めさせられる状態にまで回復できたことに大きな喜びを感じていました。
鎮静が解けたゆいとくんは、鼻から酸素が送られていてとても苦しそうに顔を歪めていたといいます。
元の元気だった頃の見た目とも程遠く、垢まみれで浮腫んでいたが、それでも両親にとってゆいとくんは最高に愛おしく可愛らしく見えました。
焦点の合わない黒目がウニョーン…ウニョーンと泳いでいましたが、母親はそこに、ゆいとくんの強い生命力を感じたといいます。
ゆいとくん自身が「生きる!!!!!」と怒って意思を伝えているように見えた母親。
そしてウニョーンウニョーンと泳ぐ黒目が、時折ジッと止まる様子に「ゆいとは絶対に見えている」と密かに確信していたと話します。
リハビリ
ICUでの長期鎮静と筋弛緩剤の投与や脳ダメージの為、ゆいとくんのリハビリは寝たきりの状態から始まりました。
最初は自力で呼吸をして目を開け生きるだけで精一杯の状態だったゆいとくん。そのため、PT理学療法士さんが少しずつ指をクリクリするマッサージをしたり、ベットの背もたれを少しだけ上げて頭を上げたりといったリハビリから始めました。
そこから約1年の入院中、口から食事を摂取することもなかなか進まず、毎日嘔吐が続き身体を動かすのが難しいこともあったといいます。
ゆいとくんは隔離患者だったためベッドの外に出ることはできず、外や廊下で散歩なども出来ません。
入院生活の中でも、骨髄炎になったりイレウスになったり好中球減少症になったりと…容態が落ち着かず、思うようにリハビリは進まない状態。
リハビリに本腰を入れ始めたのは退院して家に帰り、回復期をとうに過ぎた頃からでした。
知能の遅れもあり歩くことを理解できず、なかなか足が出なかったゆいとくん。
「これはもう一生歩けないかなぁ…」と思った母親でしたが、素晴らしいセラピストさんたちとの出会いがあり、ゆいとくんは4歳で介助歩行を獲得することができました。
現在5歳になったゆいとくん。見守りの中、自分の足で歩くことも出来るようになりました。
支えられながら初めて自分の足で歩いたときの一生懸命な顔。初めて独歩が出来たときの嬉しそうな顔は、母親の目に今でも焼き付いているといいます。
ゆいとくんのリハビリに関しては、とにかく本人が楽しみながらできるように行い、両親は「あれが出来なければいけない」「こうしてほしい」「健常児にしたい」ということはまったくなく「ゆいと本人が持っている力を最大限に発揮できる導きを、親として手伝いたい」そう思っていると話してくれました。
「やはり『これができたら』と思うことはありますが『ゆいとは精一杯がんばっている』ということを忘れないように心がけて、親の心のバランスが崩れないようにしています」
つらく険しいゆいとくんの病の急性期をみてきたからこそ、口からモノを食べ消化して処理をする「生命を維持し生きる」ということが、どれだけ難しいことなのかを知っている両親。
基本的には「生きているだけでおりこうさん」と思っているといいます。
SNS発信のきっかけ
ゆいとくんの母親は、Instagramやblogを通してゆいとくんの病気について、そして日常についてを発信しています。
ゆいとくんの病気は珍しい病気で、日常生活のなかでは同じaHUSや脳出血をした子に出会えなかったといいます。
お友達や情報が欲しいという気持ちから、ゆいとくんの母親が始めたのがblogでした。
そして、たくさんのお世話になった医療従事者の方たちに、退院後の元気になったゆいとくんの姿を見てほしかったのもありInstagramも始めたといいます。
「現在はSNSを通して同じ疾患のお友達にも出会え、いろいろな障がいを持ったお子さんを育てるご家族ともつながることができました。ゆいとの成長を一緒に喜んでくれる仲間の存在に日々感謝しています」
障がい児育児を経験する中で伝えたいこと
ゆいとくんの母親にとって「障がい児育児」とはヴェールに包まれ、特殊な遠い世界だったといいます。
障害を持つ子どもを育てるということ自体がまったく想像も出来ない未知の世界であり、無知が故に「大変なことやつらいことばかりなんだろうな…」と勝手に想像していました。
実際にゆいとくんを育てる中で「障害を持っているというだけで、子育てという部分は変わらないし、大変なことももちろんあるが楽しいこともたくさんあります」と母親は話します。
また、経験していないときは、ヴェールに包まれているように感じた障がい児育児について「皆さんにも身近に感じていただけたらいいなぁ」という思いから、ゆいとくんの日常生活やリハビリの様子を発信しています。
与えられた人生を全力で楽しむ
ゆいとくんは現在、自分に障がいがあることも、右半身に麻痺があり歩きにくいことも、右手が動かないことも、喋れないことも理解していない状態です。
大人から見れば非常に不便なハンディキャップだと思ってしまいますが、ゆいとくんにとっては、それが当たり前でそれが自分。
右手が使えないぶん左手1本で本をめくったり、向きを変えたりすることができ、車や電車が好きで、見に行ったり乗りに行くとキャッキャと跳ねて、ニコニコの笑顔で喜びを全身で表現するといいます。
そんな風に楽しそうに生きているゆいとくんの姿に「あのとき、諦めずに治療をしたのは間違いではなかったな」と両親は感じるといいます。
「大人になるとついつい欲深くいろいろ手に入れたくなりますが、ゆいとの生き様から『足るを知る』ということを教えられました」そう話す母親。
今こうして楽しく平凡に暮らせている生活が幸せだということ。
母親の@ahus.tamaさんは「今までゆいとに関わってくださった医療従事者をはじめすべての方に感謝して生きています」と最後に話してくれました。
ゆいとくんの生き方は、普段の日常に幸せを見い出す力を思い出させてくれました。
様々なことを乗り越えたゆいとくんとご両親の日々はこれからも続きます。