爆発事故に巻き込まれ全身の40%に大やけどを負い重体の青年。
多くの医師から「助からない」との声が上がるなか、決して諦めず前向きな声をかけ続けた両親と、寝る間を惜しんで懸命に治療を続けた医療チーム。
そして、意識がないと言われていたにもかかわらず、周囲の人たちの声が聞こえており、治療の痛みさえもすべて感じていたと話す濱安高信(@hamayasu.takanobu)さん。
濱安さんが事故当時から現在までの壮絶な経験を通じて自身が感じたこと、そしてこれからどう生きていくのかについてリアルに語ってくれました。
爆発事故による重度のやけどと容態悪化
濱安さんが爆発事故にあったのは平成15年5月24日のことでした。
ガスボンベのガスが漏れていることに気づかず、後輩がつけたライターの火がガスに引火。一緒にいた濱安さんも爆発に巻き込まれ、全身の40%にやけどを負ってしまいます。
やけどの部位は衣類を身につけていない顔と肘から先の両腕、膝から下の両足。特に両足はひどくステージ3と診断され、そのままにしておくと壊疽(えそ)してしまうため、多くの皮膚を切り落とす処置をしました。
重度のやけどに加え、免疫力が下がった濱安さんの身体は黄色ブドウ球菌という細菌に感染してしまいます。事故から1週間後の5月31日。運び込まれた病院で「ここでは命は助からない」と言われ、別の病院に転院することになりました。
このとき、濱安さんの身体は多臓器不全や敗血症も発症。自分自身では指1本動かすことも、瞼を開けることもかなわない状態でした。人工透析や人工呼吸器、身体のいたるところに11本の管を入れて医療機器によって生かされていたそうです。
意識不明の中、実はすべてが聞こえていた
医療の視点から見て、濱安さんが意識がなかったとされる期間は2~3ヵ月。
その間濱安さんの母親は毎日息子に向けて声をかけ続けていましたが、医局の教授から「お母さん、医療機器が反応していないんですから、話しかけても無駄ですよ」と言われてしまいます。
しかし、驚くべきことに濱安さんにはこの会話もすべて聞こえていたというのです。
意識がないと言われていたなか、実際に聞こえていたという話の内容は「父も母も毎日面会に来てくれ、父親は待合室で寝泊まりをし朝になると病院から出社していた」
「母親も無菌室に入るために毎日全身を消毒し『今日は〇月〇日だよ』『前に聞いていたCDを流す許可がもらえたから今からかけるね』といつも前向きな言葉をかけてくれた」と誰もが驚く正確な話だったようです。
「母親たちの毎日の声がけがなかったら、自分は間違いなく死んでいた」とのちに濱安さんは話します。
回復までの長い道のり
重度のやけどに敗血症、そして多臓器不全。
ときに心肺停止になり気を失ったこと、皮膚から細菌を落とすために新しくできた皮膚をすり落とす処置をされたことなど、命をつなぐための治療と経過のすべてを濱安さんは認識していたといいます。
「床ずれ防止のために、2時間おきに体位の変換をしてもらい、毎日目薬を差してもらっていた」
「痛みのショックでもしかしたら意識を取り戻すかもしれないと人工呼吸器を麻酔なしで挿管された」
濱安さんの意識のなかでは身の回りで起きている出来事すべてがわかっている状態なので、周りの人たちの認識で「意識が戻った!!」という喜びと驚きの瞬間も、濱安さんにとっては「目があいた」くらいの感覚だったそうです。
みんなが大喜びするなか「全部わかって聞こえていました」「懸命に助けていただいてありがとうございます」「五体満足に生んでくれたのにこんなことになってしまってごめんね」とたくさんの思いがあふれていましたが、口が動かず、声を発することができない濱安さんにとっては、とてもつらくもどかしく感じる状況だったといいます。
「息子は助かる」両親の思い
濱安さんの母親は、事故当時から治療期間の様子を記録にまとめています。
記録の中には、爆発のあった日に濱安さんの容態について連絡を受けた両親の心境や、亡くなってしまった親族に「どうか、息子を連れて行かないで」と願う苦しく辛い思いも書き残されています。
戻らない意識と、日によって変化する容態。不安な状況のなかでも両親は決してあきらめませんでした。
なかでも印象に残るのは、「命さえ助かってくれたらそれでいい」「高信、がんばっているね」「すごいよ!その調子!」といつでも前向きな言葉で締めくくられている記録が多いことです。
息子の生きる力を信じて、ずっと話しかけ続けた両親にとって、濱安さんの回復への喜びは計り知れないものがあったことでしょう。
つらいリハビリと現在
目を開けることができたものの、実際には指1本も動かせないところからのスタートでした。このとき、かろうじて動くのは瞼と眼球だったので、そこから意思疎通を図っていくことが最初の難関でした。
「あ・い・う・え・お」のボードを使って、相手が一文字ずつ濱安さんの視線の先を指さします。その文字であっていたら“瞬き1回”違っていたら“瞬き2回”とやりとりのルールを決めて伝え合いました。
「面会にきてくれてありがとう」「聞こえていたよ」「ごめんね」と短いひとことを伝えるのに40分から1時間かかっていたそうです。
食事をずっと摂っていなかった濱安さんの喉は焼けてしまっていたため、ひとかけらの氷を口のなかで溶かして飲み込むというリハビリも少しずつ始まりました。
医師からは「よくてもこの先、生涯車いす生活です」と伝えられていた濱安さんですが「もう一度両親に立って歩けるところを見せたい」その思い一心で歩くためのリハビリを続けます。
歩行訓練では補助具をつけて歩くものの、皮膚移植の部分や両足かかとの床ずれが歩くたびに破れてしまい血だらけに。それでも決して諦めなかったといいます。
濱安さんの身体には指の麻痺で左手が握れない、ジャンプができない、正座ができない、走れないと現在も障がいが多く残っています。しかし「生き延びることができたら夢のような人生を送る!」と決意していた濱安さんは現在、イタリア、シンガポール、韓国と様々な国を旅してまわり、その様子を自身のSNSに投稿しています。
生まれかわる決意
壮絶な事故に合い、命が助かったことが奇跡だと医師たちを驚かせた濱安さん。この経験を通して気持ちに大きな変化があったといいます。
「喧嘩ばかりして少年鑑別所に入った経験もある。事故に合いたくさんの方に助けていただいたことで、今までの生き方を悔いるきっかけになりました。自分の身体の細菌をすべて出すために600人分相当の輸血を受け、今の自分はたくさんの方の献血があってこそ生きているとわかり、感謝しかありません」と答えてくれました。
また、医師同士の会話のなかで「今夜、濱安くんは亡くなります」と言っているのを聞いてしまい「なぜもっと色々なことに挑戦してこなかったのだろう」と、世界中のたくさんの景色を見てこなかった自分を悔いたいのだそうです。
そのときの強い思いから「挑戦と感謝を忘れない人でありたい」と濱安さんは心に決めたといいます。
生きる大切さを伝える
濱安さんは現在『生きる大切さを伝える株式会社 伝生』の代表取締役として自分の経験から得た考えや学びを講師として伝えています。
NECネッツエスアイなどの上場企業をはじめ、うつ病サポートの会、各地の商工会議所などを対象に、ボランティアという形で講師を引き受け、話をしている濱安さん。
事故後、障がいが残った身体について周囲から辛い対応を受け、自身も命を絶とうかと考えたこともあったそうです。しかし、たくさんの方の力があって自分が生きているという大きな支えがあります。そんな濱安さんだからこそ、生きていることの素晴らしさを話すなかで、多くの方に生きる希望や勇気を与えているのでしょう。
また、自身が床ずれで苦しんだ経験から床ずれ防止プロジェクトを立ち上げ、寝たきりでも床ずれしにくいベッドやマットレスを導入する際、料金の負担を軽減できるよう、国や県に働きかけをしているそうです。
このように精力的に活動している濱安さん。自身の経験を1冊の本にまとめた自伝『余命1日の宣告~植物人間になって~』が書籍化されています。
「自ら命を絶とうと考えていたが、濱安さんの本を読んでもう少しがんばってみようと思えた」
そんな読者からの反応もあり、濱安さんのつらい過去と現在の前向きな生き方を発信することで、誰かが1歩踏み出す勇気として届いていることが1番の喜びだと話します。
「明日亡くなります」と医師から宣告されるほどの容態だった濱安さん。本人のSNSや取材からも周囲の方に活かしてもらっているという感謝の気持ち、そして自分自身のために挑戦し続けようという強い思いが伝わってきます。
「自分が経験した辛さや苦しみを、他の人が経験しなくて済むように。また、寝たきりの人を介助する病院関係者や家族の負担が減り、救いになれるようこれからも挑戦し、発信を続けたい」そう語ってくれました。