日本で生きづらかった女性が「人はなぜ生きるのか」を探求すべくフィリピン・カオハガン島へ 自然×人の唯一無二の体験とは

日本で生きづらかった女性が「人はなぜ生きるのか」を探求すべくフィリピン・カオハガン島へ 自然×人の唯一無二の体験とは

フィリピンのカオハガン島は約30年前に日本人(崎山克彦氏)が所有者となった。それ以来、島民と日本人の関わりは深い。ナノイ佑子さんもその一人だ。現在移住して10年目、島民と結婚し2児の母。カオハガン島の魅力は素朴な「自然」と「人」にある。これを掛け合わせて唯一無二の「学び合う観光」を伝えていきたいというナノイ佑子さんに話を伺った。

セブから近いパラダイス

フィリピン中部にあるセブ島は観光や語学留学で名の知れた場所だ。セブ島から日帰りもできる距離に、カオハガン島がある。

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カオハガン島に向け、ボートで進むと次第に海の底が見えるくらいの浅瀬を走っていることに気が付く。火山の影響で、長い時間をかけ海底の隆起と沈下が起きた。そこに珊瑚が成長して島ができた。島には椰子が生え、人が住み始めた。世界でも有数の珊瑚生息地域であるカオハガン島周辺には、魚、貝など海洋生物が多種多様だと言われ、小さいけれどとても豊かな島だ。

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観光客は「カオハガンハウス」という宿泊施設に滞在する。ここで提供される食事は、すべて島民スタッフ手作りのフィリピン料理。いつも佑子さんなど日本人のスタッフや、他のお客さんと共に過ごす食事時間は賑やかだ。宿泊客は日中、シュノーケル、釣り、村への散歩など、思い思いの過ごし方で島の自然や人と触れ合う。食事時間には、みんなとその体験を分かち合ったり、スタッフから島の自然や島民の暮らしについて教えてもらう。

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「人生に無駄はない」幼少期

ナノイ佑子さんは1988年に栃木で生まれた。父は獣医、母は元教師、三姉妹の末っ子として育った。

「父は獣医として感染症の研究をしていました。仕事場にはたくさんの馬がいたんです。週末はそこに連れて行ってもらい、餌をやるのが好きでした。また父の仕事を真似て、シャーレにスポイドで水を垂らすなど、家でも実験遊びをさせてくれました」

「小さい頃はお小遣いがなかったので、欲しいものは自分で作っていたんです。色付きボールペンが欲しかった時は、家のコピー機からカラフルなインクを持ち出して、使い切ったボールペンの中に流し込みました。粘着度合いが違って失敗したんですが」

佑子さんは父の影響で「試行錯誤」や「作ること」を楽しむような子どもだった。一方、人とのコミュニケーションが苦手で、周りから少し浮いているような子だったという。

「みんなの仲良しグループに属するのが、どうしても苦手だったんです。でもひとりでいる勇気もなく、なんとか合わせてグループに入れてもらおうとしていましたね。ただ、ほんとうは苦しかったです」

みんなと同じように振るまおうとして、生きづらさを感じていた裕子さん。しかし自分の人生において、使命のようなものが見えたのは13歳の頃、テレビ番組「黒柳徹子のアフリカレポート」を見た時だった。

「世界には、まだまだ自分の力でどうにもできない境遇で、苦しんでいる人が大勢いることは知っていたのですが、そこで自分にできることがあるかもしれない、と思いました」

これを機に佑子さんは、日本を飛び出して国際協力の仕事に進みたいと考えるようになった。

カオハガンとの出会い

高校は公立の女子校に進み、自由を重んじてくれる方針でのびのびと過ごせた。将来は世界へ出ていくことを見越して、茶道部や国際文化交流部にも所属した。佑子さんは夢への階段を一歩ずつ上がり、京都大学農学部の食糧環境経済学科に進学することとなる。
「農業は人が生きていく土台だと思っていて。そこが理解できれば、世界がどう回っているか、世界の仕組みがわかると思ったんです」

念願の場所に立てた佑子さんだったが、ここで異文化に触れたような感覚になった。

「京都大学で出会った人たちは、目のつけどころや物事の深め方がユニークなひとが多くて。私なんて努力しても到達できない、と感じました。ある種の挫折ですね。彼らは自分の心から湧いてくる興味や関心が原動力になっているんです。鋭い視点で物事の真理を学んでいたのだと思います」

このような環境で過ごすうち、佑子さんは自分の関心に目をむけ始め、今後の人生のテーマを見つけた。

「人はなぜ生きるのか、そのことを探求したくなりました。小さな頃から、世間体を気にしたり、ありのままじゃない自分で生きてきた感覚だったので。自分を取り繕うのではなく、どう命を全うして生きるかを考え始めました」

この時、自分の殻を破り、一歩踏み出そうと目標が持てたという。しかし、就職活動の時に再び先が見えない状態となった。

「就職活動って、自分を演じなければいけないという違和感を強く感じて。マニュアルを読んで、会社にとって自分がどう役立つかを考える。同じ服装をして、短い面接時間で私の何がわかるのかって」

佑子さんは強めの口調で心の引っ掛かりを明かした。そのような悶々とした日々のなか、大学の生協で「テーマある旅」というパンフレットを見つけた。そのなかにあった一つがカオハガン島のツアーだ。以前、叔父と叔母が獣医のボランティアに行った話を聞いたこともあり、この時初めて佑子さんのアンテナにひっかかった。

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愛に触れた感覚

2011年、大学4年生の時に初めてカオハガン島を訪れた。

「今まで信じていた『豊かさ』とは違う価値観が見つかるかもしれない、という期待を持ちました」

大学生のスタディーツアーはホームビジットも含まれていた。島民の家に半日の訪問体験をさせてもらう。佑子さんはオロイさんというお宅にお世話になった。その日、オロイさんが連れて行ってくれた魚釣りでの出来事が忘れられないという。

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「船にはオロイさんの息子(当時5歳)が一緒にいたんです。その子が膝に乗ってきて、私の髪を結い始めました。そしたら私、急に涙が出てきてしまって。この子は初めて会ったのに、私がどんな背景とか、何ができるとか、そういうことをまったく恐れず接してくれたんだと感じて……」

佑子さんは5歳の少年の行動に胸が熱くなった。素っ裸の内面に触れられた感覚だった。

「社会や誰かに認めてもらうため、そして孤立しないために、いつも何かをまとって生きてきたんだけど……着ているはずの鎧は透けていて、私の気持ちもすべて見られている気がしました」

卒業論文「学び合う観光」

佑子さんはこの出来事で、島の人たちがどう生きているのか知りたくなった。そして大学の卒業論文をカオハガン島についての研究に決めた。タイトルが『学び合う観光・フィリピンカオハガン島が投げかける「豊かさ」への問い』。全135ページに自然、歴史、医療や教育などの暮らしや、島民の価値観・生き方が書かれている。

論文の中で触れられているが、カオハガン島は1987年に崎山克彦氏が購入した島だ。崎山氏は島民へ「自然と共にあるシンプルな暮らしは素晴らしいので、ありのままを見せよう」と伝えた。そして観光者へは「学ぶ姿勢を見せてほしい、島で感じたこと、学んだことを自分の住む地域で継続してほしい」とお願いした。観光客はお金を落とすだけではない、島民はお金をもらうだけではない関係を提案した。(観光客には島民と直接お金や物のやり取りをしないようお願いしている)この双方の立ち位置が明確になり、カオハガン島の「社会全体」が観光資源となった。それにより「豊かさ」の循環が起きていると、佑子さんは言う。

コロナ、台風に見舞われたカオハガンの苦労と試行錯誤

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大学卒業後、スタディーツアーの添乗員の手伝いを始めた。そこでコーディネーターとしてカオハガン島に1ヶ月滞在した。その後、崎山氏に「島で2ヶ月ほど運営スタッフとしてやってみないか」と声をかけられ、島民を頼りながら手探りで仕事をした。そして2015年1月、正式にカオハガンハウスのマネージャーに任命された。

現在、アイランドホッピングの観光客も含めると、世界中から毎月約3000人が訪れる。そのうち、宿泊者は平均月50人、日本人が95%、次いで台湾人が多い。

2020年コロナ禍で島の往来が禁止になり、観光に大きなダメージを受けた。それに加えて、2021年12月に大型の台風が島を含む地域一帯を通過し、家や船などが壊滅状態になった。幸い人的被害は免れたが、日常生活に多大な影響を受けた。

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「すべてがぐっちゃぐちゃになって。弱気になったスタッフもいたんですが、何か方法を探そうと声をかけ合いました」

この時、佑子さんは幼少期に何もないところから生み出して遊んだ経験を思い出していた。

「子どもの頃、必要なものをすぐにお金で買うのではなく、自分で作り出してみるという精神が、今役に立っているのかなと気がつきました」

コロナ禍や、大型台風の直撃という危機を、島の特産品カオハガンキルトのネット販売や、クラウドファンディングで島を立て直す工夫をした。「多くの方がカオハガン島に手を差し伸べてくれたので、これからもしっかり守らないと、という気持ちに駆られました」倒れた植物、椰子の木は徐々に息を吹き返し、約一年がかりで復興にたどり着いた。

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ハルくんがもてなすお誕生日会

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取材で島を訪れる前に「息子ハルの誕生日会にぜひいらしてくださいね」と招待を受けた。ハルくんは佑子さんの長男だ。12月24日、お昼過ぎに誕生日会場へ向かった。パーティーの場所は宿泊ロッジから徒歩で5分ほど。途中、椰子の木が覆う道にはニワトリが何羽も飼われている。食用や闘鶏用だ。犬や猫も木陰で寝そべっている。教会の裏だというその場所へ辿り着く自信がなく、島民に案内をお願いした。

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到着すると、すでに10名弱の子どもたちがランチを終え、ケーキを待っていた。ハルくんを囲むのは佑子さんとご主人、ハルくんの弟、そして学校のクラスメイトと、先述したオロイさん家族だ。誰かの合図で誕生日ソングの大合唱が始まる。ハルくんは恥ずかしそうに違う部屋へ逃げ隠れするが、歌は続いた。そしてロウソクを消したハルくんが自ら包丁を持ち、ケーキを分け始める。ケーキを食べ終わると、子どもたちは申し合わせたかのように一斉に中庭へ走った。

「ハルが計画したゲーム大会が始まるんです」と佑子さんは教えてくれた。親戚からお祝いにお金を少しもらい、「自分でもてなす誕生会」を思いついた。そのお金で駄菓子を買い、みんなとゲームをして景品として渡す。

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ゲームは10種以上あった。「カラマンシーを口に入れても酸っぱい顔をしてはいけないゲーム」「小さなコピー用紙にペアで乗って、はみ出してはいけないゲーム」。「お題の物を指差すゲーム」は最初のお題が「白髪」だったことで大盛り上がり。こんなユニークなゲームが続いた。勝っても負けても大小なりと景品がもらえる。そして景品がなくなると、急いで近くのショップに追加で買いに行く子どもたち。それを3回ほど繰り返して、ハルくんのお小遣いは尽きたようだ。最後は新築の時に行う「餅まき」のように、2階からお菓子をばら撒き、みんなが競って取るゲームで誕生会は終了した。

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そのままの自分でいられる場所

今回の取材にあたり、筆者も島に2泊滞在した。黄色の花が咲く木「イエローベル」という名前のロッジに宿泊して、佑子さんたちと食事を共にし、島民の住む村へ何度も散歩に出かけた。12月25日クリスマスの朝、佑子さんが「今日食べる豚を、今解体してますよ」と声をかけてくれた。確かに遠くで動物の鳴き声が響いている。その音を頼りに向かった。

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前日まで木につながれていた豚だ。たくさんの島民に見守られながら、解体が始まっていた。大人、子ども、犬たちまで真剣になってクリスマスの食事を準備している姿は、ショーではないありのままの島民の生活だった。カオハガン島ではこうしてみんなが協力して生活している。ちょうど佑子さんのご主人が筆者を見つけて、近くにおいでと手招きをしてくれた。観光者は五感をフルに使って「そのまま」を垣間見るチャンスがある。

「そののままでいいんです」

佑子さんのその言葉に力が感じられるのは、この島の人々が素朴であり、自分が飾らなくても受け入れてくれるという信頼関係なのだろう。

「カオハガン島にいると、日本に住んでいるだけでは出会えなかったようなユニークな方、自分を持っている方に出会えるんです。私もその方達や、島民から学ばせてもらっています。学ぶことが好きなんですよね」

佑子さんはカオハガン島で生活しながら、大学時代に抱いた「どう命を全うして生きるか」について探求し続けている。そして訪れるひとと時間を共有し、交流できる場所にしたいと語ってくれた。

「これからも、島を訪れるひとに島の暮らしや島民のあり方から人生をより「豊か」に生きるヒントを得てほしいと願っています。そのためにカオハガンハウスを守っていきます」

島を去る時「行ってらっしゃい」と両手を大きくいつまでも振って見送ってくれる姿に、また帰って来たいと感じるのは筆者だけではないはずだ。

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