海外でプロサッカー選手として活躍した男性 現在“保育園の園長”としてはたらく理由とは

海外でプロサッカー選手として活躍した男性 現在“保育園の園長”としてはたらく理由とは
エリア伊都グローバル保育園園長の有坂さん。保育園の玄関にて

ブラジルの風

「このままではダメだ、何かを変えなければ」
悶々とした日々を過ごす有坂さんの背中を押したのは、意外なものだった。

2001年9月、夏が終わり夜が涼しくなってきたころ。高校での練習を終えた有坂さんはカフェのテラス席でひとり、本を読んでいた。区切りの良いところまで読んだ本に栞をはさむと、そっとテーブルに置いた。温かいカフェモカをひとくち飲んで思いっきり背伸びをした。そのときだ。ブワッと一瞬風が吹いた。

「あっ。今、ブラジルの風が吹いた」
風を浴びた瞬間、ブラジルでの出来事や当時の心情が一気にフラッシュバックした。

「今の僕は、もう一度あのときのようなヒリヒリとした経験をしないとダメだと思ったんです。チャレンジするなら自分の常識を打ち壊すようなことがしたい。もう一度『海外へ行こう』と決めました。どうせ行くのなら難易度の高いところ、日本人も少ない土地でチャレンジしたいと思いました」

とはいえ、すぐにコーチを辞めたわけではない。慕ってくれる子どもたちの思いや自身の責任を考えると、自らコーチを辞めることは、苦痛でしかなかった。それでも「迷いながらコーチを続けていくことはよくない」と感じ、心を決めた。子どもたちに思いを伝えると、想定通り反発があった。しかし、練習後にグラウンドで黙々と自主トレを行う有坂さんの姿を見ていた子どもたちは、彼のチャレンジを受け入れ、応援してくれるようになった。

海外でプロ…く理由とは
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2度目の挑戦

2002年1月、26歳の有坂さんは、コスタリカへ渡った。

最初の滞在先だけを決めて、トレーニングを行いながら、飛び入りでサッカーができるチームを探した。チームが見つからないまま4カ月が経つころ、有坂さんは、ようやくきっかけを掴む。縁あって、バリオメヒコから引っ越し、ベレンという田舎町でアパートを借りた。

かつてブラジルを散歩したときのように、ジョギングをしながら町を巡った。教会前の広場で草サッカーをしている男たちに出会うと、仲間に加わり、プレーできるチームを探していることを伝えた。すると、そのなかのひとりが友達を紹介してくれた。

その友達は、マウリシオ・モンテーロ。コスタリカ代表選手としてワールドカップにも出場したことがある元プロサッカー選手だった。彼は現役を引退後、2部リーグ「サン・ラファエル」の監督を務めていた。有坂さんは、マウリシオの紹介で、彼の友人が監督を務める1部リーグ「カルメリータ」の練習に参加することになった。急展開に驚きながらも、人との出会いが人生を変えることを身をもって感じた。

しかし、現実はそう甘くはなかった。
試合への出場機会を手にすることもないまま、有坂さんはカルメリータを去ることになった。マウリシオの誘いで「サン・ラファエル」の練習に参加していたが、しばらくすると日本で貯めてきた生活資金が底を尽きてきた。今月いっぱいで日本に帰ることをマウリシオに伝えると、思いがけない言葉が返ってきた。「うちのチームと契約しないか?」

2002年、有坂さんは「サン・ラファエル」とプロ契約を結び、コスタリカの2部リーグで1シーズン、プロサッカー選手としてプレーした。

海外でプロ…く理由とは
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忘れられない3分間

プロとして1シーズンプレーした有坂さんには、ある思いが芽生えた。

「選手として自分がどこまでやれるのか区切りをつけたい。来シーズン、1部リーグのテストを受け、合格できなければ帰国する」と決めた。練習途中で挫折を味わった「カルメリータ」のテストマッチに挑んだ。

先発メンバーに有坂さんの名前はなかった。体を動かし名前が呼ばれるのを待つが、残り5分を切っても有坂さんだけ名前が呼ばれない。「俺は評価の対象にも入っていない。28歳という年齢で日本でもコスタリカでも実績がない。

どんなプレーをしても評価されることはないのか…」頭ではわかっていても、プレーするチャンスさえもらえない状況に「ふざけんな」と悔しさが込み上げてきた。残り3分。怪我人が出て有坂さんの名前が呼ばれた。

「このまま終われば自分の負け。絶対に認めさせてやる」

有坂さんのポジションはボランチ。攻撃と守備のつなぎ役として、試合の流れをコントロールする役割だ。通常のテストマッチでは、皆が自分のプレーをアピールしたいのでパスが回ってこない。しかし、その日、ピッチに入った有坂さんにはパスが集まった。ボランチとして自分のやりたいプレーができて、最後にゴールも決めることができた。

「お前すごかったな」「ナイスプレー」鬼気迫る有坂さんのプレーに、試合後、チームメイトや相手チームの選手までもが、握手をしに来てくれた。「あの3分間は、人生で一番殺気立っていました」有坂さんは、当時を振り返る。

1部リーグへの合格は叶わなかったが、スッキリとした気持ちで日本への帰国を決めた。

「それまでの自分は周りの評価を気にしながら生きていました。3兄弟の長男として、サッカー部ではキャプテンとして、学校では生徒会長もやりました。役割を果たすことで周りから評価されることに喜びを感じていたんです。一方で、周りの目を気にして、役割を果たすことでしか自分を満たせないことに劣等感もありました。でも、あのテストが終わった時に、周りから何を言われようとも『自分がやれることをやった』と心から言えることがすごく嬉しかったんです。もう、あれ以上のプレーはできなかったです」

先のことは決めないで行こう

28歳でコスタリカから帰国した有坂さんは、9年間コーチとして働いた。その後、コーチを辞めて、イベント企画や運営を経験したサッカーカフェで、妻・光葉さんと出会い、結婚した。

2016年10月、カフェの閉店に伴い退職した有坂さんは、妻とふたりで旅に出ることにした。帰国後、コーチとして再び働くことを決めていた有坂さんは、働く先を決めて旅に出るべきか迷っていた。

「先のことは決めないで行こうよ。先のことが決まっていたら、そのための旅になっちゃうから」妻の言葉に有坂さんは感動した。

先のことを決めずに訪れたコスタリカで、ふたりは糸島から移住していた日本人家族と出会う。「帰国後のことはノープラン」というふたりに、家族は糸島のよさを熱心に伝えた。帰国後、糸島を訪れたふたりは、糸島に暮らす人たちとの交流会に参加した。移住者の多様な価値観やライフスタイルに触れるなかで「糸島に住んだらどういう人生になるんだろう」と移住について考え始めた。

コスタリカから東京の家に戻った有坂さんは、東京に暮らすイメージがもてなくなっていた。糸島での暮らしを想像するとワクワクする一方で、コーチとして働くことを考えると、基盤がある東京の方が現実的でもあった。

「これからどうしようか?」妻に話を持ちかけると、「糸島に住みたいんだけど」と返ってきた。「実は、俺も思ってたんだよね」こうしてふたりは、糸島への移住を決めた。

「彼女が言うように次の仕事を決めず『余白』をとっておいたから、『糸島への移住』という選択肢が生まれたんですよね。妻に感謝してます」

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