「9割以上が即興」と言われるインド古典音楽。その中で「バンスリ」という竹笛を演奏しているのが、イギリス出身のShyan Kishore(シャイアン・キショール)さんだ。
1996年にバンスリに出会って以来、世界各国で演奏を続けてきたシャイアンさんだが、現在は静岡県の田舎に移住し、自ら空き家を改装して暮らしている。
「日本でインド音楽は全然人気がない」と話すシャイアンさんが、なぜ日本の田舎に移住したのかも取材した。
即興音楽を求めて出会ったインド音楽
シャイアンさんは子どもの頃から感性が豊かで、絵や音楽が得意だった。ドラムやギターなどさまざまな楽器を演奏する中でフルートに出会ったが、「ルールが決まったものではなく、もっと自由で即興的な音楽がやりたい」という思いがあった。
「規則やルールがたくさんある学校教育に疑問を持っていました。自由に自然の中で走り回っていたい。それが即興音楽を求めることにつながっていきました」
そんなあるとき、知人からインド音楽のレコードを聴かせてもらった。
「僕がずっと探していたものはこれだ!」と、すぐに悟った。演奏者はインド古典音楽界の巨匠である「Pt. ハリプラサッド・チャウラシア」。のちにシャイアンさんの師匠となる人だ。
ずっと探し求めてきた自分の音楽を見つけたシャイアンさんは、3週間後にインドへ飛び立った。
演奏環境が整っていない
インドに3か月滞在して、バンスリを習った。帰国後すぐ、Pt. チャウラシア氏のコンサートが偶然にもロンドンで行われることを知る。行くと、何千人も入るような大きな会場で「こんなに有名な人だったのか」と驚いた。そして演奏後に話しかけにいき、弟子入りした。
シャイアンさんはインドで修行を重ね、そして一人でも世界各地で演奏を披露するようになっていった。
日本にも度々来日し、コンサートをしていたが、日本ではワールドミュージックはまったく人気がないことに気づいた。お寺やカフェで数十人のお客さんのみということもザラ。日本では、他国のように設備の整ったコンサートホールで演奏する機会はほとんどない。それでも、なぜか日本に導かれ続けた。
そして2年前、静岡県の小さなカフェでコンサートを開いたとき、ある夫婦に「インド音楽ってどんなもの?」と、質問をされた。
「僕はこの手の質問にうんざりしていました。インド音楽は心や感覚で感じるもの。でも、日本人は論理的に思考で理解しようとする人が多いんです」
設備が整っていない環境や、他国と違い集まらない観客にいら立ちを覚えることもあった。しかし、このコンサートでは不思議とリラックスして演奏できたという。そして以前は不快に思っていた質問にも、心から素直に答えられた。
「このときは、直感的に『目の前の人に向き合い、自分の持てるものすべてを与えよう』と感じました。すると僕の回答に相手は子どものように興奮して、それまでと反応が違ったんです」
不思議なご縁に導かれて、移住が決まる
時代はコロナ禍になり、26年間の世界各国を巡る生活に終止符を打った。同時期に、インド舞踊をしている日本人女性と結婚。そして、かねてより自然の中で暮らしたいと思っていたシャイアンさんは、妻とともに移住先を探し始める。
日本各地を探していたときに、静岡の友人を訪れた。「この地域の空き家を知っていそうな人を紹介するよ」と会わせてくれたのが、2年前にコンサートに来てくれた夫婦だ。
夫婦は再会を喜び、快く彼らが管理している空き家を見せてくれたばかりではなく、「この家は無償でお譲りできると思います。東京にいるオーナーに確認しますね」と言ってくれた。
この家はクリスチャン団体が所有していて、夫婦は管理を任されていた。しかし、管理が難しくなってきたことから「いい人が見つかれば」と感じていたようだ。
後日、確約の連絡をもらった。その日は偶然にもシャイアンさんの誕生日だった。
そして現在、シャイアンさんは音楽活動に取り組みながらも、近所のお茶や田んぼ、畑などの農作業を時々手伝いながら暮らしている。
「今振り返ると、イギリスで演奏していたらもっと有名になれたかもしれません。でも、きっと『僕はすごいミュージシャンなんだ』というエゴが大きくなっていただろうとも思うのです。僕が日本に導かれ続けたのは、謙虚でいることや素の自分のままでいられるためだったのかもしれません」
さらにシャイアンさんは「インド音楽は祈りを捧げるもの」だと語る。
「目の前にいるお客さんの数は関係なく、この場にいる全員と音を共有し、ともに音楽を作り上げるイメージです。僕は媒体となって演奏させてもらうだけ。その心があのときの夫婦に伝わり、今この家と巡り合えたように感じています」
シャイアンさんは自分で作ったテラスでガーデンコンサートを開いた。夫婦は家が蘇ったことをとても喜んでいたそうだ。