13もの商店街が広がり、おしゃれな古着屋やカフェ、特色ある飲食店が建ち並ぶ東京・杉並区の高円寺。町を代表する文化の一つに落語があり、毎年冬にはお寺に個人商店に銭湯まで、街の至る所で落語を聞くことができる「高円寺演芸祭り」が開催される。そんな高円寺の落語文化を支える名物おじいちゃんがいる。
アマチュア落語家の関沢正さん。またの名を「高円寺亭たら好」という。老舗の乾物店を営みつつ、地元の清掃ボランティアや自治会活動などに精を出す。落語講座の教え子は1,000名を超え、親しみをこめて「師匠」と呼ばれている。
落語との出会い
出征先から戻った父親が高円寺で始めた乾物店を、幼い頃から手伝っていた関沢さん。食べ物があれば売れた時代。いずれ店を継ぐと思っていたという。そんな少年と落語の出会いは中学生の時だった。
「中学1年生の時、学芸会がありました。どこで覚えてきたか忘れましたが小咄をしたんです。そしたら当時の担任の先生にとっても褒められたことが印象的で。これがきっかけで演劇部に入りました。高校、大学では落語研究会へ。いろんなところに呼ばれて、感謝されて、良い思いをしましたね」
だが、落語の世界は厳しい。プロを目指す人以外は、基本的には辞めてしまうという。関沢さんも、大学卒業後は実家の乾物店で働き始めたため、ほとんど落語からは離れていた。それでも、落語との縁は切れなかった。
「ある時、地域の児童館に行くことがありました。すると、落語の真似事のようなことを子どもたちがやっていて。そこで、自分が教えてあげようということで、年に何回か子どもたちに落語を教えるようになりました」
この、児童館の子ども向け落語講座をきっかけに、徐々に依頼が増えてきた。そして、座・高円寺という劇場での子ども向け落語講座や、高円寺学園(旧杉並第四小学校)での授業など、たくさんの高円寺の子どもたちに落語の面白さを教えるようになった。
「高円寺学園の卒業生だったら、みんな寿限無ができるはずです。受講生にはみんな芸名を自分で付けて貰っているので、もう900人くらい高円寺亭を名乗る子どもたちがいます。高座に上がって褒められる経験は貴重だと思います。物怖じしなくなり、多世代とも話せる子どもになります。教育的意義も大きいと思います」
また、子どもに限らず、高円寺の落語文化を支える多くの人材を育成した。
高円寺亭たら好の誕生
そんな関沢さんの芸名、高円寺亭たら好は、いつどのようについたのだろうか。
「40歳頃のことです。すでに有名になっていた高円寺阿波踊りと同じような高円寺の新しい文化を作ろうという動きがありました。そこで落語が脚光を浴びたんです。
いまや笑点レギュラーの三遊亭好楽師匠や小遊三師匠らが駆け出しの頃、落語の機会が少ないということで、応援しようと私も含め高円寺の有志で寄席を開いていたんです。小遊三師匠の出番でもお客さんが7人とかの時代です。でも数年やって、みんな有名になって。そんなタイミングで、今度は自分たちで落語をやってみようという話になりました」
そうは言ったものの全員素人。そこで、落語研究会出身だった関沢さんに声がかかった。
「まずは芸名が必要だと。みんな商店主だったので、それにちなんで付けました。私は乾物屋でたらこがよく売れたので、高円寺亭たら好。薬局さんは高円寺亭びたみん、めがね屋さんは高円寺亭錦志(近視のしゃれ)みたいにね。これが高円寺亭の始まり。そこから、『純情寄席』という名前で、高円寺純情商店街の中華料理店の3階の大広間で、年に1回やっていました。20年続きました」
落語の面白さを伝えていきたい
その後、いくつかの社会人向けの落語講座を依頼されるようになった関沢さん。杉並区の社会人向け講座を担当した際、その受講生たちが卒業後も落語を続けるようになり、2009年に杉並江戸落語研究会が設立された。関沢さんは顧問に迎えられ、徐々に学生時代に落語研究会だった実力者も参加するようになり、現在では小学生から80代まで40人ほどのグループとなった。
「私はアマチュアなので、本格的な技術を教えることはできません。私が伝えてきたのは、落語の楽しさ、面白さです。嬉しいことに、子ども向け落語講座の卒業生の中に、落語にはまって杉並江戸落語研究会に入ってくる子がいます。小学生が酔っ払いの落語をするんですよ。これが面白い。また、高齢者施設に訪問して落語をすることもあります。喜ばれるんですよ。これには生きがいを感じますね」
2023年2月だけでも6回の出番があった関沢さん。次の高座は2月26日に公益社高円寺会館で開催される第三回高円寺亭一門会だ。
「これからも、たくさんの人に、特に子どもたちに落語の面白さを伝えていきたいと思います。落語を学ぶことをきっかけに、子どもたちが多様な世代の人々と接するきっかけになり、先人の知恵を知る。とても素晴らしいことだと思います」