瀬戸内国際芸術祭の舞台でもある、瀬戸内海に浮かぶ離島群。そのうちの一つ、香川県の丸亀港から船で30分の本島に、2022年11月13日、小さなブルワリーがオープンした。40代の久保田宏平(こうへい)さん、真凡(まなみ)さん夫妻が営むクラフトビール工房「久福(きゅうふく)ブルーイング本島」だ。
今の生活で本当にいい? そんな疑問がきっかけ
それは、本島町泊地区の海に面した集落にある。看板も掲げていない黒い外壁の建物のドアを開けると販売カウンター、その奥にある24平方メートルほどの広さの部屋に、一度に300リットルを仕込むタンクが3基と、専用設備が並ぶ醸造室がある。ここが久福ブルーイングの工房。2022年9月にプロトタイプである最初のビールが誕生して以来、現在は3タンク目が瓶詰めを待っている状態だ。
夫妻は対岸にある坂出市の自宅をベースに、本島の工房との2拠点生活を送っている。2人がなぜあえて離島でビール作りを始めることになったのか、それにはこんなストーリーがあった。
旅行会社で地方創生の業務に携わる宏平さんは、とてもハードな日々を送っていた。出張が多いうえ、ウィークデーに家族と一緒に食事するのもままならない。真凡さんは自身も仕事を持ち、保育園に通う子ども2人を抱えてワンオペで子育てする生活にストレスが溜まる一方。好きな仕事に打ち込み、日々充実してはいても、いつも忙しそうな宏平さんの姿に、真凡さんは歯がゆさを感じることも多かった。
「今でこそワーク・ライフ・バランスというけれど、当時はそんな風潮もなくて。ただ、自分の今後を考えた場合、この仕事をずっと定年まで続けていくイメージができなかった」
そしてビールの魅力に取り憑かれていく
その頃、2人は以前暮らしていた実家の古い民家を何かに活用したいと考えていた。
「単なるシェアスペースやゲストハウスではおもしろくないけど、何かをつくる施設が併設してるといいなと。例えば、宿泊した人が自分でタップからビールが飲めるようなブルワリー兼ゲストハウス」
いつかは実現したいという思いが募る2人。パンやコーヒーという選択肢もあったが、なぜかビール作りの話だけがどんどん進んでいった。2020年、コロナ禍による緊急事態宣言が発令される前のことだ。
以後、休みのたびに近県のブルワリーへ通うようになる。見学に出かけたマイクロブルワリーと呼ばれるそれらの醸造所は、予想に反して気軽に工房を見せてくれ、知識を分けてくれた。そのうち、仕込みや瓶詰め作業にも足を運んで手伝わせてもらった。
日本では、大手メーカーが作るビールの認知が圧倒的だが、ビールには実は数えきれないほどのタイプがある。「超」がつくほどのビール好きではなかったという2人だが、醸造所を訪ね歩き、飲みにいく場所が増えるごとに知識も増えた。「知れば知るほどおもしろいし、知らないままでいるのがもったいない」と、ますますビールの魅力にハマっていった。
宏平さんがビール作りに本腰を入れることに真凡さんも大賛成。問題は宏平さんが勤めていた会社をどうするか。
「副業は認められておらず、辞めることを念頭に置いていたところ、コロナ禍でのリモートワークの加速のおかげで、会社に勤務しなくても仕事は続けられることから、会社の姿勢も緩和。晴れてダブルワークでビール作りができることになりました」
本島と2人を結ぶ 不思議なご縁に導かれて
それから工房の場所探しが始まる。地元坂出のシャッター街となった商店街も候補にあがったが、肝心の物件が見つからない。本島の存在を紹介してもらったのはそんなタイミングだった。
「最初は島でやるつもりはありませんでした。島だとコストはかかるし、他の離島にビール工房はあるし。でも、本島で知り合ったある人に事情を話したら半分本気、半分冗談で物件を紹介してもらって。見ると目の前がビーチで、港から徒歩圏内、郵便局が近い。万が一、島でやる場合に考えていたイメージにまさにぴったりだったんです」
本島は、かつて瀬戸内海に君臨した塩飽水軍の拠点の一つで、島には船大工も多かった。物作りの文化が息づく場所であったこと、出会った古民家ももともと商店で酒を取り扱っていたこと、探していた大家もすぐ見つかったこと。さらに、小さな子どものために、自然豊かな場所との近距離の2拠点生活ができるのが魅力だった。
こうしていろいろな縁に導かれ、2人はこの地に決断。建物改修に想定外の費用はかかったが、それを上回るものがここにはあった。
本島に決めた理由は他にもある。
「島には漂うゆったりした独特の空気感。それは発酵食品であるビールを作るのに合っていると思いました。大きな工場で作るのと違い、ここでは日々の天気や時間の経過、美しい景色を眺めながら仕込むことができる。そのメリットは大きい」
島の風情にふさわしい 久福のビール
2人が作るビールは、島のハーブをはじめ中四国、瀬戸内の産物といった、そのつど異なる季節の副材料を使って仕込む。発酵が終わって炭酸を加える従来の作り方ではなく、瓶詰めをした後に瓶内で二次発酵をさせるため、微炭酸で飲み口は柔らかい。発酵食品だけに小規模のブルワリーだとタンクごとに味に差が出る。それを敢えて生かし、定番商品というものも作らない。そのためタンクごとに001、002とナンバーをつけているのも特徴だ。
理想は穏やかな本島によく似合う、派手さはないが味わい深くじっくり楽しめるビール。ネーミングの「久福ブルワリー本島」も、飲む人に“幾「久」しく「福」を届ける”という思いを込めた。
現在購入できるのは、直売所とイベント、数か所の店や酒屋でのみ。プロトタイプとして製造したものは清水白桃、香川県の早生みかん、001はマスカット、002は岡山県の大実金柑と瀬戸内の藻塩を副原料に使っている。どれもこの場所でなければ生まれていなかった、この島ならではの味だ。
評判は予想以上によく、ビール作りや工房作りをSNSで発信してきたおかげで、徐々にファンも生まれ始めている。
取材時、瓶詰め作業を待つ003を飲ませてもらった。島の海岸に育つハマゴウというハーブを副原料にしたもので、炭酸が生まれる前のやさしい味と微かに感じるハーブの香り、ホップの苦味とのバランスがいい。これに微炭酸が加わるとどんな味に変化するのか、とても楽しみだ。
島の活性化の一助になれれば
変化といえば、2人の生活も大きく変わった。ビール作りを通じた2拠点生活には船の運航時間という制約がついて回る。ちょっと発酵の具合を見に行くということができないし、忘れ物をしてもすぐに取りに帰ることもできない。
そんな宏平さんに「自分の目の前に起きている事象に抗うことがなくなったし、許容範囲が広くなった。時間に対する概念も変わった気がする」と真凡さん。
宏平さんも「ビール作りで人は酵母に適した環境を作り、あとは酵母に任せるしかない。何が起きても今置かれた状況でどうするか、という思考に変わりました」と話す。
島の暮らしには課題も多い。離島では空き家が増え、人口減少の一途にあるという現実だ。
「僕たちは2拠点暮らしだけど、こうして空き家を利用して新たな産業を始めていることが、もし地域活性などのきっかけのひとつになるのであれば嬉しいです」
長年地域創生に携わってきた宏平さんの言葉に、この場所で始めたことへの強い思いと意味を感じた。