腫瘍を抑制する細胞を作り出す遺伝子に異常があり、身体中の神経に良性腫瘍が多発する「神経繊維腫症II型」は、日本に1000人前後しか患者がいないと言われている病気だ。この病を持って生まれた田中佳奈さんは声や聴力を失い、音楽の道に進むという夢を断念。だが、彼女の日常に「可哀想」という言葉は似合わない。
「病気になんてなりたくなかったし、障害を乗り越えるなんて一生無理だと思います。でも、振り返ってみたら、悪いことばかりではなかった。たくさん泣いて悩んだ経験が、私の人生をより豊かにしました」
神経繊維腫症によって音楽の道を断念
3歳の頃、田中さんは右目が先天性白内障であると診断され、翌年、手術で水晶体を摘出。右目が、ほぼ見えなくなった。
病名が明らかになったのは、小学5年生の時。縄跳びでひっかかるようになり、左足に力が入りにくいなどの異変が見られたことから、病院を受診したところ、腫瘍が見つかり、神経繊維腫症II型であると告げられた。
足の筋力は徐々に低下し、高校生になる頃、走れなくなった。そして、19歳の夏には脳内にある聴神経腫瘍が声帯の麻痺を引き起こし、声を失う。音楽が好きで、専門的な高校に通い、東京の音大を目指していた田中さんは、夢を断念せざるを得なかった。
「音大の受験には歌の試験もあるので、進学を断念。何年か、言語聴覚士と発声のリハビリをし、脂肪を声帯に移植して声を出しやすくする手術を行いました」
大学進学を諦めた後は地元のピアノ教室でアルバイトをし、音楽に携わろうとしたが、身体に次々と異変が起きた。20歳の頃、親指の麻痺が起こしていた腕の腫瘍を摘出。
そして、脳内の聴神経にできた腫瘍は、田中さんに大きな悲しみを与える。この腫瘍は大きくなりすぎると命に危険があったため、右側の聴神経腫瘍を摘出。この手術により、右耳の聴力がなくなり、大好きだった音楽を続けることはできなくなった。
「私は辛い時、音楽に支えられて生きてきたので、絶望しました。どうやって生きていこうと不安で、消えてしまいたいとさえ思いました」
似た境遇の仲間に勇気を貰って「外の世界」へ踏み出すように
病気は、さらに進行し続ける。弱っていた足の筋力はさらに衰え、ほとんど歩けなくなったため、2019年から車椅子生活に。腕の痺れが強くなってきたことから、3年前にはもともと首にあった腫瘍も摘出した。
すさまじい速さで変化し、できないことが増えていく自分の身体。それを受け止めるのは簡単なことではなく、気持ちが塞ぎ、ひとりで外へ出ることもできなくなっていった。
だが、首の手術を終えた後に勤めていた会社を退職し、空いた時間にインスタグラムで自分の日常を綴る中、同じような境遇の人たちと繋がり、持病の受け止め方が変わっていく。
「みんな不安や痛み、悩みと向き合いながらも自由に楽しく、伸び伸びと生きていた。その姿に刺激を受けました」
「私は、『どうせ迷惑をかけるから』『そんなことできるわけがないから』と自分の意志を何度も殺しながら生きてきたんだ」。仲間と関わる中で、そう気づいた田中さんは外の世界に踏み出る決意をする。
まだ乗り慣れない車椅子で、音のない世界を歩むのは不安が大きく、勇気が必要だった。だが、外へ出てみて、“世界は優しさで溢れている”ことに気づく。
「ドアを開けて待ってくれる、高いところのものを取ってくれる、坂道や段差で手を貸してくれる。そんな、さりげない人の優しさがすごく染みた。健康な人は、なかなかこんな風に人の優しさに触れられないのではないか。だったら、私は人の優しさに触れる回数の多いラッキーな人間だと思ったんです」
また、医学書や心理本を読む中でよく目にした、「他者のために行動や手助けをすると、その人の脳内に幸せホルモンが出る」という文言も。価値観を変えるきっかけとなった。
「もし、そうなら、私を助けてくれる人たちも、少しいい気分になってくれているかもしれない。そう考えられるようになり、積極的に助けを求められるようになりました」
その後、田中さんは自分の日記として使っていたインスタグラムで、闘病記や体験談を発信するように。似た境遇の人や同じ病気の人が1歩踏み出すきっかけを作りたいと思うようになった。
また、バリアフリー情報サイト「Tutti」を開設。車椅子ユーザーになったことで気づいた、外の世界を楽しむために必要な情報を発信し始めた。
「お店の入り口に段差がないか、座席はハイチェア、ハイテーブルではないか、店内通路の幅は足りるのかなどは調べても、ほとんど出てこない。ネット社会であるのにマイノリティへの情報は少ないので、自分が訪れた場所の情報を記録しています」
こうした活動をする中で、田中さんのもとには「同僚のために手話を覚えたい」や「どんなふうに助けたらいいのか」など、健常者からも質問や相談が寄せられるようになった。
その声に触れた田中さんは、助け方が分からずに悩んでいる人が多いことを知り、知っておくと便利な障害福祉に関する情報や、自分が実際に経験した困りごとや助けてほしいことなども、インスタグラムで発信している。
「すると、障害者と全く関わりのない人にも見てもらえるようになりました。やっぱり、みんな知りたかったんだと確信しました。その優しさを声や形で出してほしいとの思いから、発信を続けています」
病気に振り回される人生だったけれど、それが自分の全てではなく、障害はあくまでも自分の一部。色んな一面を持っているのは障害の有無に関係なく、みな同じ。そう語る田中さんは、自分と違う世界を生きてきた人と、積極的に関わってほしいと訴える。
「今の社会は何をするにも、健常者と障害者で分けられすぎている気がします。それでは、互いのことを知れず、違う世界の人という認識で終わってしまう。でも、病気ではなく、その人自身を知れば、新しい発見がある。だから、私は両者を結ぶ架け橋であり続けたい」
新たな夢を抱きながら、田中さんは自分しか歩めない人生を謳歌していく。