世界有数の宝石集積地として名を馳せるタイ。その加工技術は世界トップクラスとされ、宝飾品はタイの主要輸出品になっている。
しかしコロナ禍により、タイの宝飾業界は壊滅的なダメージを受けた。今なにが起きているのか、現地で宝石商を営む日本人に聞いた。
タイで宝石研磨工場を営んで20年
バンコクの住宅地に佇む工場の中で、職人たちがアメジストの小さな原石を磨いている。するとその原石は輝きを放ち始めた。
「宝石の加工技術は伝統工芸の世界に近いと思います。彼らの職人魂と技術は僕の宝です」
そう語るのは、タイで宝石研磨工場「Nobu gem cutting factory」を営む赤池さん。バンコクでタイ人の妻と娘と暮らしている。
「ブラジルやアフリカ、東南アジアから仕入れた原石を自社工場で加工して、日本や欧米の宝石メーカーに輸出しています」
赤池さんがバンコクに移り住んだのは、2001年。日本で宝石業界の大手企業に就職するも、自身のサラリーマンとしての可能性に限界を感じて5年後に退職。一念発起して、宝石加工の本場タイに単身で渡った。
タイ系の宝石商社で2年経験を積んだのち、2004年に独立。以来、世界各国のプロ宝石商たちと肩を並べ、圧倒的な実力主義社会で生き抜いてきた。タイでの20年を「山あり谷ありだった」と振り返る。
「当たり前ですが、日本の常識は全く通用しません。ボーナスを渡すと社員の半分がいなくなったり、赤服デモや洪水騒ぎ、テナントの立ち退き要求やら……いろんなことがありましたね(笑)」
コロナ禍で零細企業の倒産が相次ぎ悲鳴
世界全体の宝飾業界の景気は、80年代から90年代をピークに下火になっていた。2008年のリーマンショックで大打撃を受け、そこに追い打ちをかけたのが新型コロナウイルスだった。
「2020年4月に空路が閉鎖されました。外国人バイヤーがタイに入国できなくなったので、対面取引などは全てアウト。売り上げは半減しました」
タイの宝石業界は零細企業が大半を占める。2020年5月の段階で、タイ人が営むローカル研磨工場がバタバタと倒産していった。
「彼らの多くは自転車操業でした。当時、仕事を求めて僕の元にも大量の電話がかかってきたんですが、自分の会社を守るのに精一杯で……無念のなかで廃業していく仲間を見て辛かったです」
赤池さんの会社は一定の余剰資金があったが、常に「倒産」の二文字が脳裏をよぎっていたという。人員整理の決断に迫られたが、限界まで雇うと決めた。
国からの助成金はゼロで、極限まで出費を切り詰める日々。1年経つと、今度は外国人が経営する大手研磨工場の倒産が相次いだ。
「幸いにも、国内の研磨工場が激減した影響で、うちに仕事が殺到したのです。そのおかげで、古い付き合いの外注工場4社のみをなんとか支えることができました」
赤池さんの工場でクラスターが発生し、2週間の閉鎖を余儀なくされたときは、仲間の外注職人たちが「任せろ」と仕事を引き受けてくれた。コロナ禍で研磨工場が大量倒産するなか、赤池さんの工場は耐え抜いた。
「心が折れないよう必死でした。苦境のなか支え合った仲間との絆は深まりましたね」
コロナ後の深刻な職人不足に懸念
タイの宝飾業界は現在、コロナ前の3割ほどしか景気回復していないという。だが赤池さんが最も危惧しているのは、アフターコロナの深刻な職人不足と工場不足だ。
「もともとタイの研磨業界は薄給で、若手が不足していました。コロナ禍で解雇された職人の多くは、Grab(タイのタクシー配車アプリ)のバイタク運転手といった異業種に転職し、低賃金の宝石業界には見切りを付けています」
先行き不明なタイの宝石業界を少しでも盛り上げようと、赤池さんは2008年に始めた宝石鑑別教室の講師としての活動にも力を入れている。
「微力ですが、僕自身がこれまで培った技術や経験を生徒のみなさんに伝えて、後世のジュエラーを育てる種蒔きをしたいです」
新世代ジュエラーが吹き込む新しい風
高額かつ目利きが必要な宝飾品は、ネット販売に不向きとされてきた。だがコロナ禍を経て、オンラインショップに注力する新世代ジュエラーが台頭するなど、新陳代謝が起きているという。
赤池さんも精力的にSNS発信をしたり、日本の若手宝石商やデザイナーとコラボ販売をしたりと、新たな可能性を模索している。
「私たち下請け研磨工場は、小売店やデザイナーを陰で支える黒子の存在でした。でも最近では、クリエイターとしての僕にビジネスの依頼がくることもあって。とても楽しく新鮮な気持ちです」
赤池さんには会社経営とは別軸で、作り手としての夢もある。
「研磨の業界でひとつの技術に秀でると、小さな会社であっても世界中から注目してもらえるんです。僕も良い作品を作り続けて、いつか後世に残る大ヒット作を生み出したい。そんな果てしない夢を追いかけています」