倉敷美観地区で半世紀に渡って、民藝の心を伝えてきた「融(とおる)民藝店」。元店主の小林融子さんが、全国の作り手のもとへ足繁く通い、見定めた品を扱う老舗民藝店です。80歳を前に体力的に店を続けることが難しくなった小林さんは引退を決意。このほど後継者に決まった山本尚意(たかのり)さんに配り手としての思いを託します。リニューアルオープンは、2月5日。これまでの融民藝店の歴史や、次世代につなぐ思いを取材しました。
「作り手」の思いを「使い手」へ伝える
大正末期に柳宗悦らによって創られた「民藝」という言葉は民衆的工藝の略語。鑑賞される美術工芸品に対して、暮らしの中で使われる丈夫で廉価、かつ美しい品のことを指します。
「コップならば一度両手で持ってみてください。取っ手の握り具合を試したり、コップの肌に触れてみると、作り手の思いやぬくもりが伝わってきますから」と小林さんは話します。
民藝品を扱う配り手として、小林さんが大切にしてきたのは「作り手の思いを使い手へ伝える」こと。全国津々浦々、工房を直接訪ねて民藝品を見定め、創作への思いを丁寧に聞き取ってきました。
特にやちむんの産地・沖縄へは度々訪ねました。
「市場を歩いて、土地の風土や人の気質に触れて旅をしながら、良い焼物に出合える瞬間。本当に楽しかったですよ」。時には作り手に対して「ここはもう少し薄く」「過剰な装飾は不要」とアドバイスすることも。小林さんと作り手との信頼関係が分かるエピソードです。
サラリーマンだった夫の弘之さんも良き理解者。
まとまった休みになると、2人で東北まで車で出掛け、車いっぱいに岩手の竹製品や信州の籠を詰めて、持ち帰ったそう。
小林さんの買い付けは国内にとどまらず、南米チリや中国、インドネシア、タイなど世界各地に広がりました。
鋭い審美眼で美観地区に民藝店オープン
小林さんは1963年、岡山天満屋に入社し、岡山県民藝振興株式会社の売り場(当時)へ配属。その鋭い審美眼が買われて28歳の時、当時の社長・杉岡泰氏らからバックアップを受け、融民藝店を開きました。
作り手と真摯に向き合い続けた小林さんは、「倉敷ガラス」の創始者、小谷眞三さんや沖縄の人間国宝・金城次郎さんとも親交を深めました。
特に小谷さんは喜寿を迎えた後も、同店で展示会を続けるほど、小林さんに全幅の信頼を寄せてきました。
「日常で使ってこそ」の“用の美”を学ぶ
一方、融民藝店を継承することになったのは、山本尚意さんです。
倉敷市出身の山本さんは、東京で雑誌やカタログのフォトグラファーとして働いた後、2011年の東日本大震災を契機に家族とともに岡山へUターン。その後、岡山県民藝振興株式会社に入社し、販売員として店頭に立つほか、ホームページの立ち上げ、展示会のDMやポスターの制作などを9年、経験しました。
民藝について学ぶため、美観地区にある倉敷民藝館や大原美術館とともに、融民藝店にも頻繁に通ったという山本さん。
「行けば必ず、小林さんお薦めの器でお茶やコーヒーを出してくださいました。しっかりと使い込まれた器でお茶を飲みながらお話を聞き、民藝について理解を深めてきました」
「食器棚に飾られるのではなく、日常で使ってこその民藝品」。顔を合わせて話す中から、小林さんからのメッセージを山本さんは受け取ります。
「最初は、後継者を探していると新聞で知りました。その時は、漠然と後を継ぐ人は大変だなと。しばらくして、最後の展示会を訪ねた時に、『やってみない?』と小林さんから直接声を掛けられました」と山本さん。
そして、家族や周囲からの後押しもあり、小林さんの思いを継ぐことを決意しました。
「山本さんは見る目をしっかり持っている。まずこれが一番。また穏やかな雰囲気のある人なので、自然体でやっていってほしい」と小林さんは後押しします。
山本さんは「以前、岡山県民藝振興がバックアップした小林さんから、今度は、岡山県民藝振興で働いていた僕にお声がかかるのは、不思議なご縁だなと感じています」と話します。
時代とともに、民藝の輪を広げたい
リニューアルについて、店の雰囲気はそのまま。什器は同じものを使い、並べる品も同じ。「少し動線を広くして、見やすくなるように工夫しますが、まずは“引き継ぐこと”がテーマだと思っています」
フォトグラファーとしても民藝品を撮影し続けてきた山本さん。
「コロナ禍で店舗への来客は減少しましたが、オンラインでも丁寧に見せれば、使い手に思いが伝わるということを、前職の仕事を通じて経験しました。店で一つ一つを手にとってみるように、焼きの違いや模様の強弱を写真などで見ていただけるよう、やりとりを重ねて伝えていきたいです」
また、山本さんは民藝の裾野の広がりにも期待を寄せています。
「幅広い世代から愛される民藝ですが、若い世代のファンも増えています。物に溢れて育った世代にとって、いびつで均一でない民藝品は新鮮に映るのかもしれません。作り手、配り手、使い手の輪をこれまで同様に大切にしながら、時代の変化とともに、僕なりに輪を広げていけたらと考えています。その中から次世代の作り手が育っていくところも見たいですね」