プロの鉄道写真家として、岡山県岡山市を拠点に活動する白井崇裕さん。中四国地方の新幹線や特急列車、ローカル線などをメインに撮影。その写真は『鉄道ファン』などの雑誌や本、鉄道会社の広告イメージなどで使われています。
鉄道写真に限らず、地元・岡山での活動や広告媒体など、様々な撮影を展開する白井さん。そのテクニックや、鉄道写真家になるきっかけとなった人々との出会いについて取材しました。
「一瞬」のための高度な技術
スピード感のある鉄道車両と、四季折々の景色の美しさが1枚に収められている鉄道写真。撮影には高度な技術が必要とされています。
その1つに、疾走する鉄道の一瞬を押さえるための「流し撮り」というテクニックがあります。カメラを低速シャッターに設定し、列車の動きに合わせてカメラを振り抜いて撮影する技法で、プロでも失敗することがあるほど、高い難易度を誇ります。
白井さんは技術を磨き、撮影後の検証や改善を繰り返すなど研究を重ね、このテクニックを習得。さらに、標準的な流し撮りの設定より難易度を上げて、よりよい表現を追及しています。出版社や雑誌社などから「やっと高難度の撮影に対応できるカメラマンと出会えた」と喜んでもらえたこともあるとか。
鉄道写真の撮影に大きく関わるのが、場所や季節、天気など。柱や壁などがない場所を探し、太陽などの光がどう影響するのかを考慮。太陽角度の計算も含め、ロケハンに1年かかることも珍しくありません。
1カットのために5000回シャッターを切るような、奥深い鉄道写真の世界。念願の1カットを押さえられた時は「これでいい発表ができる」と安心するそうです。
祖父から受け継いだ情熱
白井さんの写真家としての人生を歩むきっかけには、ある2人の人物が関わっています。
1人目は、幼い頃に同居していた祖父。元アナウンサーの祖父は「美しい日本語を作りたい」と退職後に会社を立ち上げ、朗読作品を制作。白井さんは作品制作を手伝いながら、その姿を見て育ちました。
「祖父は、話し方に関しては職人気質。『美しい日本語』をテーマに、言葉を使って耳に訴える表現力を追及し、本番1回のために2万回は朗読練習していました」
五感を働かせた表現を追求していた祖父ですが、1997年2月に緊急入院。病室から出られなくなった祖父に対して、当時13歳だった白井さんが行ったのが「500系新幹線の撮影」でした。
「500系新幹線のデビュー話を祖父にすると『見てみたい』と言うんです。そこで500系デビュー当日に病院の屋上から撮影し、写真を見せてあげたんです。祖父は、500系の姿にとても驚いていましたね」
その後も「祖父に見せてあげたい」と言う気持ちで白井さんは鉄道写真や桜などを撮影しました。
「その後、祖父が亡くなって、悲しくて仕方ありませんでした。気持ちの整理がついたのは、20年ほどたってから。鉄道の写真を撮っている間だけは、その辛さを忘れることができました」
目で見て音が聞こえるような、臨場感ある写真を追及する白井さん。“祖父から受け継いだ、五感を大切にする表現”を、自分らしく育んでいます。
「祖父は言葉で、僕は写真。基本は同じ路線で、作品作りをしているんです」
プロの一言が運命の岐路
2人目は、プロの鉄道写真家・伊藤久巳さんです。
2001年3月「お召し列車」が鎌倉で走ると聞き、当時17歳の白井さんは、撮影ポイントへ向かいました。そこで伊藤さんに出会ったのです。
伊藤さんは鉄道写真はもちろん、航空写真の第一人者とも言われているプロフェッショナル。白井さんは挨拶をし、作品アルバムを手に「写真を見ていただけませんか?」とお願いをしたそう。伊藤さんは快く写真を見てアドバイスをしてくれたと言います。
「その時伊藤さんから『君、これだけ撮れていたら食べていけるよ』と言ってもらえ、場の空気感が変わったことを覚えてます」
その後、伊藤さんに紹介された出版社に写真を送った白井さん。ビジュアル中心の鉄道趣味雑誌『鉄道ファン』への掲載は、その後の人生を大きく変えていきました。
「伊藤さんが教えてくれたのは『腕と人間関係を、大切にすること』。仕事に繋げるためには、チャンスにアンテナを貼っておくことも大事だと、痛感しています」
写真と共にある人生を、より一層深めるために
現在白井さんは、鉄道写真に限らず幅広い写真活動を行っています。11月7日に開かれる備前岡山京橋朝市では「2018年の西日本豪雨災害の被害を忘れない」というテーマで、横幅2メートル超の巨大な写真を24枚展示予定。鉄道写真という軸を持ちながら「自分がここ岡山にいるから、写真が撮れるんだ」という思いを大切にし、撮影しています。
「見る人の心に響くような写真を、1枚ずつ届けたい」という思いで撮影に臨む白井さん。初めての撮影から24年たった今なお「まだまだこれからです」と活を入れています。