もともと児童養護施設の職員でした
――結果、いまではGWなど多いときで、3時間待ち。80組待ちが出るほどに。
村岡:
ほんと、ありがたいことです。ただ、そもそも蒜山に飲食店のキャパがないということでもあると思うんです。うちだけじゃなくて、どこも人であふれています。コンビニはからっぽになるし。それぐらい集中するときがあるんです。
――単純に、キャパを増やせば、というのは。
村岡:
でも冬があるんですよね。お店を広くしたとしても、冬になるとお客さんが底をうつので、やっぱりキャパを増やそうとは思えない。
でもね、僕はやっぱり冬もあきらめずに、年中集客できるよう、観光とか飲食店とか、商売をしている人たちが力を出すべきだと思っています。いつも「もっとやれることがあるんじゃないか」と考えているかな。
――それほど、冬はお客さんが落ち込むんですね。
村岡:
そうですね。なかには「稼げるときに稼いで、あとはゆっくりしたらええやん」と考える人もいて。「どうしてそこまでガツガツするの?」って。
でも、自分の子どもたちのことを考えたり、もっと先の、蒜山とか真庭のぜんたいのことを考えたら、経済的に自立しておかなきゃという危機感があるんです。
――経済的な自立。お金のことですね。
村岡:
今後の人口減少なども考えて、お金に囚われない、というか。僕、ずっとお金と向き合わないままだったんです。むしろお金儲けと関係のない福祉系の仕事をしていたので。
――ちなみに、村岡さんの前職って?
村岡:
児童養護施設の職員でした。もともと、24時間テレビとか観たらすぐに涙が出るし、困った人がいたら助けたいとか、募金があったらしなくちゃと思うタイプだったから。福祉系に進んで、児童養護施設で働きはじめました。
――すみません。児童養護施設っていうのは?
村岡:
家庭の事情で、お家で生活できない2歳から20歳ぐらいの子どもたちを預かる施設ですね。たとえば親から虐待を受けたとか、親との何らかの不適切な関わりで入所していて。
家庭のお父さん、お母さんがやること。学校から帰ってきた子どもたちの宿題を見るとか、ごはん、洗濯。幼稚園だったら送り迎えとか。学校の参観日、PTAや地域活動とか。メジャーじゃないけど、めちゃくちゃハードで、尊い仕事でした。
――知らなかったです。
村岡:
このときも、社会的に助けを必要としている子どもたちなのに、「どうしてもっと知ってもらえないんだ!」という腹立ちが原動力になっていました。
お金についても、はじめは「お金よりも、大事なものがある!」と思って、向き合わないままだったんですけど、少しずつ向き合わなくちゃいけないように感じはじめて。
――なにか、きっかけが?
村岡:
施設の子どもたちに接していくなかで、大学進学とか、進路と向き合ったときに、ほんとお金かかるなあと思ったんです。奨学金とかの手続きも僕がしていたので。
施設運営も、寄付をいただく機会がけっこうありました。社会貢献をしている自負はあったけど、寄付をしてくださった方からふと「お金がないと、世のなか変わらんよね」と言われたことがあって。
――なかなか刺激的ですね。
村岡:
そのときは、また「くそ!」と腹が立ったんですけど、「でも、実際そうだよな」と思う節もあったんです。やっぱり力を持たないと、社会って変わらないよなって。それがずっと残っているんだと思います。
見るものすべてが美しくて、「ああ、蒜山ええなあ」と
――移住というか、転職は、そのお金のところがきっかけだったんでしょうか?
村岡:
いや、僕はその仕事にものすごく誇りを持っていて。大人になるまで、ほんとずっと親代わりとして関わるわけやから、コロコロ職員が代わっていいわけがない。ぜったいに辞められない、という感覚で仕事をしていました。
でも実際は、24時間の交替制で、なおかつ虐待する親御さんとも関わったり、成長過程の子どもたち全員にも親として向き合わなくちゃいけない。
――……ハードですね。
村岡:
だましだましやっていたんだけど。結果的に、僕の体調が崩れました。精神的にも鬱っぽくなって。「仕事、ちょっと休ませてください」って言って。僕ひとりだけ、こっちに帰ってきました。
――それが、Uターンのきっかけ……。
村岡:
そうですね。子どもたちは学校があるから、真理さん(奥さん)たちは兵庫にいたままだったんだけど。僕はこっちでお義母さんに「ちょっと手伝わせてください」て言って、2、3日働かせてもらいました。
そのなかで、家のまわりを散歩したり、夜の星を見たりして。見るものすべてが美しくて、「ああ、蒜山ええなあ」と思いました。ここで暮らすのもええなあって。
――Uターンして、気持ちが落ち着いたんですね。
村岡:
落ち着きました。移住前の半年間とか、ほとんど記憶がなくて。高野山とか、熊野古道とかいろいろ何かを模索するように行ってたみたいなんやけど、それもあんまり覚えてなくて。
――ほんと、ギリギリの精神状態だったんですね。
村岡:
運がよかった、と思います。真庭へ急に帰ることになったのも、なにか不思議な力に導かれたような感覚があります。
人と出会うタイミングとかも、「自分、運いいなあ」と思うことだらけなんです。こっちに戻ってきてからも、お義母さんが優しくて、真理さんもよくしてくれて、スタッフにも恵まれて。お店のこともはじめの段階から信用してくれて、ある程度したら僕に任してくれました。
子どもたちにとっても、おばあちゃんのいるところに帰ってきたのは、避難場所になるみたいでよかったと思います。おばあちゃんも楽しそうにしてくれています。
自分の店の社会的意義みたいなものに重きを置いて
――コロナの状況を、どう捉えていますか?
村岡:
2020年のGW、緊急事態宣言を受けて自主休業したんですけど、そのときに思ったのが、やっぱりお店って開けていないと収入がないんだ、ということ。当たり前やけど、ほんまに思って。
そのときに、通販の準備をはじめました。不安を感じたことで、向き合わなくちゃいけなかったことに向き合わせてくれる、コロナはそういう気づきを与えてくれたものだと解釈できれば、と思っています。
――ネガティブな面だけに目を向けない。
村岡:
コロナ禍でも、蒜山はまだ恵まれていると思います。日常生活もそんなに制限されない。是非はあるけど、お客さんも来てくれている。
ただ、だからと言って「危機感」はめちゃくちゃあります。コロナだけじゃなく、社会があまり目を向けていない現場にいたということもあって、現実に目を向けて、これからどう生きていくべきなのか、という視点はつねにあります。
――蒜山の現実でいえば、たとえばなにかありますか?
村岡:
どこもそうですけど、人口減少ですよね。今後、人口が減っていくなかで、この蒜山の経済や景観をどうまわしていくのか。人口が示すものって必ずあるから、それをちゃんと考えていかないと、と思っています。
――自分のお店はもちろんですけど、蒜山ぜんたいも考えている。
村岡:
そうですね。自分のお店を大きくするというよりは、自分のお店の社会的意義みたいなものに重きを置いているかな。だから、事業に対して真摯に向き合いながら、「この地域をどうしていこうか」と一緒に考える仲間を増やしているところです。
地方そのものがもう、生き残りがかかっていますから。……まあ、焦っているのは僕だけかもしれないんやけど(笑)。
――「危機感」があるかないかは、地域を考えるうえでのポイントになると思います。
村岡:
あと、児童養護施設を退職するとき、お別れ会をしてもらったのですが、こんなに涙が出るの?というぐらい泣いて。そのとき嗚咽しながら、「日本一の店になる!」って、子どもたちと職員の前で約束したんです。
辞めることに申しわけなさもあったので、覚悟を示さないとと思って。でも、その言葉がいつも心のなかにあります。それを目指すことが恩返しにつながると思っているし、蒜山から全国区になれば、「田舎でもできるんだ」という未来にもつながると思うんです。
――子どもたちとの約束……。いいお話ですね。
村岡:
そうでしょ!
いまは、メルマガ購読者数日本一を目指して、コツコツ発信しています。
――ほんとにおもしろいメルマガですよね。今日は長時間、本当にありがとうございます。最後になにか伝えたいことがありましたら。
村岡:
もう充分、語らせてもらったので。
ふだんは無口で、コワモテで、覆面レスラーみたいになにを考えてるかわからん人間なんで、こんなにしゃべるとは。そこもこれも、甲田くんに引き出してもらったおかげです。
――いえいえ、そんな。恐縮です。
村岡:
でも、なんか調子が出てきたので、もう少し語っちゃいましょうか! えーっと、基礎からがええか。昭和プロレスの歴史について、まずは馬場と猪木のライバル関係から詳しくお話しますね。
――えぇぇっ! そ、それは……!! とにかく、本日はありがとうございました!!
※メルマガ「悠悠メールマガジン」は、悠悠の思いや裏話、蒜山・真庭のオススメ情報が満載です。なによりお店で「えこひいき」されます(笑)。
テーブルにレスラーマスクを並べたまま、笑いっぱなしの取材でした。
取材を終えて店のそとに出ると、蒜山の風景が違って見えるようでした。
観光地、というわけではなくて、美しい風景や自然のなかに、「ひとの思い」とか「暮らし」とか、奥行きのようなものを感じるようになっていました。
まえから知っていたけど、それでも。
あらためて、いいとこだな。蒜山。口にだして言いたくなる時間でした。
取材からしばらく経っても、行列のできている悠悠を見るたび、誠介さんの半生が浮かび上がってきます。合わせて、レスラーマスクをかぶる誠介さんの姿も。