ただ儲かればいいわけではない、久米流の商いの中身とは
久米さんの人柄を象徴的に物語るエピソードのひとつが、閉店後のわずかな時間を使って独学したフルートの演奏です。来る人を少しでも楽しませたい、そんな思いから一念発起したといいます。
「フルートな、ここでやらなんだら一生終わりや。楽譜もまったく分かれへんねん。でも、音楽と縁がなかったから。こんな悲しいことないわって思って練習して。1年経った時点で『大きな古時計』吹いて」
「あるとき、足の悪いおじいさんが来たんよ。そのおじいさんにフルート吹いたときに、下手やけど『元気になったわ』って。そいで、生のものってこんだけ人に勇気与えられるんやなって調子に乗ってんな」
もちろん、フルートだけではありません。オーダーや会計の折を見てきめ細やかに声をかけ、自身が階段室に描いたイラストが見たいと頼まれれば、どんなに忙しくても案内する――久米さんの行動に一貫しているのは、店を通じて誰かに喜んでもらいたいという、純粋な願いなのです。さまざまな分野における「協力者」が現れるのも、そんなサービス精神の積み重ねがあってのことでしょう。
「飲食店なんかいっぱいあるわけや。それでもなんでやってるかいうたら、喜んでほしいからや。儲けな続けられへんけども、人間ってそれだけで動いてるわけじゃないやん。『感動した』なんか言われたらな、やらなあかんわ。で、それをやったってわけや」
その語り口は、あくまで関西弁によるあっけらかんとしたもの。しかし、久米さんはしっかりと果たすべき使命を見出しているようでした。久米さんをそこまで駆り立てるものは何かを問うと、こんな答えが。
「命を使い切りたいっていう。ぐずぐず言ったらもったいないやんみたいな。人生の縮図は1年、1年の縮図は1日やと。それはなんて言うんやろな、1日に取り組むことにすべてが凝縮されるいうか」
コロナ禍が店の目指すべき方向をより明確にした
山あり谷ありながら店を愛する人に支えられ、柔軟にその姿を変えてきたトロイカ&リビエラ。今度は新型コロナウイルスという脅威への対応を迫られた格好ですが、久米さんはその先をどのように考えているのでしょうか。
「みんなが梅田の商業施設とかに行かんようになった。そしたら逆に、このへんに住んでる人が自分の街をうろうろしてん。このへんを歩いて、このへんの店行くって流れに変わってきた。ひょっとしたら芽があるかもしれん。自分の街、再発見っていうか」
「いままではチェーン店が幅を利かして、我々が生きるすき間がなかったんやけど、これは個々の店が生き残るチャンスかな。その代わり、唯一無二じゃないとダメやで」
長年にわたり、玉造の街を定点観測してきた経験が養った観察眼から見えてきたのは、人の流れの確かな変化。経営面での悩みは当然あるとしつつも、足元の街を見直す動きが出ていることに、前向きな印象を抱いているそうです。
これらの言葉には、あらゆる「ローカル」でがんばる人への示唆が含まれているかのよう。もちろん久米さんの場合は、コロナ禍がもたらした「チャンス」を地域の個性とともに形にしていこうという構えです。
「1人でやったら完成形が見えるやん。でも人とやるとな、完成形が見えへんやん。その方がおもしろいかなと思って」
「いろんなお客さんと出会ったら、違うことができる。その人と関わりのある人もいっぱいいるから、いろんな膨らみが出る。どこまで行くか分からんけど、もっとおもしろいことになるんちゃうかな」
新たな出会いが、新たな店のありようを形づくる。そこに集う人の個性が、また新たな店の個性になる――トロイカ&リビエラが繰り出すアドリブは、きっとまた多くの人を楽しませてくれるはずです。