戦力外通告――この言葉の重みを体感できる人は、ごく限られています。プロ野球界では毎年秋、100人を超す選手に非情な知らせが。厳しい競争にさらされた末に、プロに留まれる選手はほんのひと握りほどしかいません。
今回、取材したのは、ヤクルトから戦力外通告を受け、古巣の社会人野球・シティライト岡山に復帰した藤井亮太選手。プロ生活に別れを告げた選手の新たなキャリアに迫ります。
1988年、兵庫県生まれ。小学校1年生で野球を始め、高砂南高校、東海大学海洋学部、シティライト岡山を経て、2013年ドラフト6位でヤクルト入り。1年目から一軍出場を果たし、俊足と強肩を武器にチームを支えた。通算成績は183試合で105安打、2本塁打、18打点、打率.242。シティライト復帰後は、中古車のオークション事業部に勤務している。
プロ生活との別れに未練はなかった
ヤクルト入団当初はキャッチャー登録ながら、内外野もそつなくこなすユーティリティプレーヤーとして、首脳陣から重宝された藤井選手。4年目の2017年5月に行われた広島戦では、ピッチャー方向に上がった小フライを三塁からの猛チャージで好捕し、すでに出塁していたランナーもアウトにして、一躍「忍者」の異名で話題になりました。
この年はサードを中心に100試合近くに出場。結果を残したことに加え、複数のポジションをこなせることから、「長くプロでいられるのでは」という実感もあったそうですが、翌年以降は主力選手の復帰や若手の台頭もあり、徐々に出場機会を減らしていきました。
2019年は自己最少の6試合の出場に留まり、2020年も一軍からはなかなか声がかからず。焦りを感じていたところに古巣の監督で、かつて一緒にプレーした経験もある桐山拓也さんから電話がありました。
「『調子どう?』みたいな感じで。自分もちょっとやばいなと思ったんで。『もしクビになったらお願いします』って話はしてたんで」
「若い選手いっぱい入ってきてるんで、そろそろ危ないとは思いましたけどね。まだまだいけると思ったんですけどね」
その後、シーズンが大詰めを迎えると一軍登録され、複数安打を記録するなど健在ぶりを示した藤井選手ですが、11月11日、あえなく戦力外通告。ヤクルトの高津臣吾監督からは「力になれなくてごめんな」とのメールが送られてきました。この時点である程度、プロ生活への未練は断ち切れていたといいます。
「(踏ん切りは)つきますよ。もう言われた瞬間につきました。もう無理だって」
選手としてコーチとして、古巣に恩返しを
それでもわずかな可能性を信じていた藤井選手は、NPBでのプレー続行を目指してトライアウトを受験しました。4打席に立ち、直前まで同僚だった風張蓮投手(現・DeNA)から三振を喫するなど、感触は「全然ダメ」。プロ球団から声がかかることはありませんでした。
しかし、体のコンディションに支障はなく、まだまだ動ける状態です。32歳という年齢を考慮し、プロ復帰は目指さないという現実的な判断を下しつつも、野球そのものへの思いは捨てることができず、すでに声のかかっていたシティライトでの現役続行を決めました。プレーについて「切り替えは大事」と話す藤井選手らしい決断でした。
「(迷いは)なかったっすね。まだ自分ではやれるって。まだまだ全然できるって思ってるんで、できる限りはやりたいなっていうのはありますけどね」
2021年1月下旬、藤井選手は再び岡山の地に戻りました。新しい肩書きは、選手兼任コーチ。以前、所属していた際には果たせなかった都市対抗野球ベスト8入り、さらにはそれ以上を目標に、後輩たちを鍛え上げる役割が求められます。
「なんも変えることはないと思うんですよ。まずプレーヤーなんで、みんなの見本になるようなプレーができたらいいと思いますけどね」
「プロでも『こういうことちゃんとするんや』みたいな感じっす。プロでも一番基本のことちゃんとせなダメなんで」
現役引退後のことは考えていないとし、背中で引っ張る覚悟を示してくれた藤井選手。まずはプロ生活を経て養われた「基本に忠実に」という野球観を伝えることで、恩返しとしたいと考えています。
「余裕でアウトにできんのに『なんでランニングスローしてんねん』って。雑って思われたらそれで終わりなんで」
監督やコーチとの信頼関係が築かれていないことには、活躍の場をつかめないのは実力の世界も同じ。その土台になる基本の徹底、チームプレーのやりがいを物語るのは、自身の一挙手一投足であることを、藤井選手はじゅうぶんに心得ています。
さて、最後に。ヤクルトファンに向けたメッセージをうかがいました。
「7年間、ありがとうございました。あの声援は一生忘れることはありません。新天地でもがんばりますので、また応援よろしくお願いします」