住んでいる町が、どんな人たちによって作られたか知っていますか? 誰かの尽力があって今の姿があるはずですが、案外それを知る機会は多くありません。長崎市の北に位置する外海(そとめ)では、約150年前にフランスから来て町のために奮闘したド・ロ神父の功績や人柄を今でも生き生きと伝えています。
食・農・ガイドを通じてド・ロ神父のことを伝承する「一般社団法人ド・ロ様の家」でお話をうかがううちに、単に歴史を伝えるだけではない大事な思いが見えてきました。
ド・ロ神父を突き動かしたのは、人々への愛とフランス革命仕込みの探究心
ところで、いまなお長崎で「ド・ロさま」と親しまれる神父はどんな人だったのでしょうか? フランス貴族に生まれたマルク・マリー・ド・ロ神父は東洋布教を志し、1868年(明治元年)に来日しました。長崎・横浜で10年余をキリスト教書籍の印刷出版に携わったのち、1879年に外海に赴任。
やせ土で作物が育ちにくい外海の貧しさを目の当たりにし、「人々を貧しい生活から救いたい」「自立して生きる力をつけたい」という一心で、私財を投じてマカロニ工場や鰯網工場などを建設。ほかにも、「ド・ロ壁」と言われる頑丈な壁や動きやすい制服を考案したり、農具を取り寄せて土作りをさせたり。驚くほど多岐にわたる改革や教育を行いました。
ド・ロ神父の「スーパー」っぷりに、取材中驚きが止まりませんでした。貴族出身の神父が、どうして農業や土木にもあかるく、工夫をこらすことができたのでしょうか? 素朴な疑問を尋ねると、意外にも「フランス革命を経験した両親の教育の結果」だといいます。
「これからどういう時代が来るかわからないから、子どもたちが自分の力で生きていけるようにしなければ」と痛感したド・ロ神父の両親は、田舎の領地で子育てをし、農業や牧畜、土木や鍛冶を手伝わせました。母親は、縫い物・編み物を娘にも息子にも教えたそうです。
「探究心豊かに育てたんでしょうね」とシスター赤窄(あかさこ)。「紅茶がお好きだったので、おもしろがっていろいろ試してみているんですよ」実際、紅茶の作りかたのメモを見ると、作り方を細かく調整し、楽しみながら探究する姿が浮かんできました。「地域の人を救いたい」という気持ちが活動の源にあるのはもちろんですが、探究心をもって様々に試行錯誤していたことがわかります。「外海の人々が自力で暮らしていけるように」という思いは、両親の教育からきているようです。