生徒との対等な関係性が創造力の源に
大学という場所を離れたいまも、変わらず生徒に接する持田先生。それと並行して、自身も毎日欠かさずなんらかの制作活動を続けているといいます。まして教室が開かれるのは、自宅から遠く離れた和歌山。年齢的にも負担になっているのではと考えるのが自然なはずです。しかし、こちらの問いかけに先生はこう応じてくれました。
「生きてるってことは、静止してることじゃないじゃないですか。それ、いちいちしんどいって感じてたら動かれへんですよ」
「もともと生き物ってのは能動的につくられてるんですよ」
87歳の誕生日を迎える2021年2月19日から、神戸市で開かれる個展のタイトルは「今も創っています。」。会期中はなんと、本人によるデモンストレーションも行われます。年齢を感じさせないバイタリティの裏側には、やはり一緒になって手を動かす生徒の存在があるそう。
「生徒のみなさんがおるから僕はいるんやっていう、そういう生き方ですね。生かされてるっていうかね」
知人からは「教師とは自分を消耗する仕事」と告げられたという先生。自らの技術を後進へと伝えることは、あるいは「敵」を生み出すことにもつながりかねないという意味合いです。ところが、先生の場合は自らの制作に刺激が与えられているとのこと。先生にとって生徒は、いわばよきライバル、共同制作者といえるのです。
「(生徒は)同輩であるというか。それが86までやってこられたこと(理由)だと思いますけどね」
「先生という言葉よりも『もっちゃん』とか、持田さん(と呼んでほしい)」
名誉教授という肩書きがありながら、上から教え込むのではない、あくまでも対等な関係性を築く。グループCu 10+1のメンバーの作品が、銅版画であるということ以外に目立った共通項を持たないのも、先生の大らかな人柄の表れといえるでしょう。そうして、そこに規格通りではない、純粋な意味でのアートが生まれるのです。
人は誰でも、いくつからでも芸術家になれる
さて、最後に。長年の画業、そして指導キャリアに基づく話のなかでも、特に印象的だったのが次のひと言でした。
「それこそ80歳からでも、100歳からでも芸術家になれるわけで。日常(そのもの)が芸術家と思ってもいいわけですからね。生きてることがね」
芸術系の大学を出たところで、必ずしも芸術に関する職にはありつけない時代にあって、この言葉の持つ意味は決して小さくありません。自由度の高い指導方針を象徴するかのようですが、ただしそこにはひとつだけ条件があります。それはすなわち、自身の造語である「ひと理よがり」になること。
どれだけ自分らしい表現したところで「理」、すなわちコンセプトがなければ、そこに伴う芸術性はじゅうぶんとは言えません。感覚的に「見れば分かる」で終わりにせず、いかにしてその表現に落ち着いたかを熟考することが、アートをより高い次元へと昇華させてくれる――これは、長い教員生活のなかで、学生にずっと伝えてきた思いだといいます。
冒頭の「徒党を組まず、孤高に陥らず」という人生指針にも通ずる、力強いメッセージ。芸術という分野のみに留めておくのではなく、人生という壮大なテーマに置き換えて考えてみても、新たな自分自身が見えてくるのかもしれません。