コロナ禍でも儲かる漁業とは? “オリーブハマチ”からひも解く養殖産業の可能性

コロナ禍でも儲かる漁業とは? “オリーブハマチ”からひも解く養殖産業の可能性

オリーブ牛に、オリーブマダイ、さらにはオリーブ車海老――県木のオリーブをエサに使ったブランド食材が豊富に揃う香川県。なかでもオリーブハマチは、一連の「オリーブシリーズ」のパイオニアともいえる存在です。

その一大産地となっているのが、東かがわ市引田。穏やかな瀬戸内海に面した良港を有し、国内随一の手袋の生産拠点としても知られるこの地で、オリーブハマチの養殖を手がけているうちの1人が、服部水産の3代目・服部秀俊さんです。

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日本大学農獣医学部(現・生物資源科学部)で、海洋生物資源について学んだ服部さんによるハマチ養殖は、緻密な計画に基づいた効率性の高さ、そして安定した漁獲高が何よりの特徴。環境配慮型の漁業者であることを証明する、マリン・エコラベル・ジャパン(MEL)認証も取得しています。

「『今日はようけエサやったわ』っていうのは人間の自己満足だけで、魚は満足してないかもしれん」
「食べ過ぎてえらかったら(たいへんだったら)病気が出たりして死ぬでしょ。そこの見極めが人間の観察力とか、腕なんで」

そう確信を持って語る服部さんに、養殖大国・香川が誇るブランド魚を育て上げるまでの道のりをうかがいました。

育て上げた魚を自ら売るまでのノウハウが服部さんの強み

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もともと服部水産は、魚の販売からスタートした会社です。当時の経営は、服部さんの祖父と父の二人三脚。生きたまま魚を運べる活魚運搬船で、大阪や神戸をはじめとした一大消費地に向け、新鮮な瀬戸の魚を送り届けるようになったのが、ちょうど服部さんが生まれた1969年のことでした。

全国に先駆け、昭和初頭にはハマチ養殖が始まっていた引田においては、養殖産業への進出はかなり後発の部類。販売で積み上げた資金を元手に生け簀などの設備を整え、創業の2年後にはハマチの養殖を開始しました。ここで役に立ったのが、親子2人で地道に開拓してきたネットワークでした。

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引田での養殖は、水温の高い太平洋で獲れた稚魚を春先に運んできて、大きく育てるのが基本。体の小さい稚魚は、内海の引田で冬を越すことができないのです。現在は愛媛で獲れたものが多くを占めるといいますが、そういった稚魚の仕入れ・販売にも全面的に携わっていたからこそ、養殖分野への参入もスムーズに進みました。

多くの養殖業者とは異なり、すでに販路を持っていたことも奏功。生産して終わりの漁業者ではなく、自らの手で魚を売りさばけるルートがあったわけです。そこに技術の向上も加わり、昭和50年代の後半には、5キロクラスの大型魚を出荷できるまでに。冬場の海苔養殖との「二毛作」で事業を拡大させていきました。

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服部さん自身が漁業に関わるようになったのは、大学卒業後の22歳のとき。父から「浪人、留年、即漁師」とプレッシャーをかけられていたにもかかわらず、意外にも家業を継ぐことへの抵抗はなかったそうです。

「(家業を継ぐ気持ちは)変わらんかったですね。もう中学校卒業するときに決めとったんで」

しかし、わずか1年あまりで父が地元漁連の組合長に就任し、現場を離れることに。若くして社長業を引き継いだ服部さんには、従業員から「お前が学校で勉強してきたこと、何の役にも立たんわ」という厳しい言葉も飛びました。それでも、大先輩たちと粘り強く対話を重ねた服部さん。大学で得た知識にベテランの勘を足し合わせる形で、ひとり立ちを果たしていきました。

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現場経験を重ねた服部さんが次に手をつけたのが、産地加工。消費地加工では生ごみや排水の処理に大量のコストがかかることに思いが至り、父とともに産地加工の先進地である離島を視察したといいます。

「産地で加工して、身だけ食べられる状態にした方が、消費が伸びると思ったんですよ」

離島に比べ、京阪神圏への地の利が活かせる引田ならではの着想は実を結び、事務所近くに県漁連の加工場が完成。1匹ずつ箱詰めしていた従来以上に、効率的に商品を送り出せる体制固めに成功しました。

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