「空襲は怖かった」若くして亡くなった父に代わり、グアム戦没者の遺骨収集に取り組む男性の思いとは

「空襲は怖かった」若くして亡くなった父に代わり、グアム戦没者の遺骨収集に取り組む男性の思いとは
松本平太郎さん

銀座・吉祥寺などに展開する美容室チェーン「松本平太郎美容室」の創業者である松本平太郎さん。NPO法人ピースリング・オブ・グアム・ジャパンの理事長として、先の大戦でグアムにおいて亡くなった方々の慰霊や遺骨収集に取り組んでいる。

空襲の恐怖を体験。そして幼くして両親が他界

1940年に豊島区駒込で生まれた平太郎さん。当時の日本は戦争真っ只中。1945年3月10日の東京大空襲は、静岡県小山町の知人宅へ疎開しており難を逃れたが、自宅は全焼。防空壕に保管していた家財道具も燃えてしまったという。

「空襲は怖かったね。当時の自宅の近くには目立つ建物があって、どうも空襲の時の目印にされていたようで、しょっちゅう爆弾が降ってきたね。昼間でも真っ暗になるほどだったよ。私は空襲警報が鳴ると怖がってよく泣いていたみたい」

叔父の五郎さんの出征に際して(左前列の子どもが平太郎さん)

疎開先で終戦を迎えた平太郎さんは、幼くして立て続けに戦中戦後の厳しい生活の影響で両親を亡くす。戦後の混乱の中で、祖母と幼い弟だけが残された。

「私は三鷹に住む叔父の家に引き取られたんだよね。叔父は理容室をやっていたんだ。中学生になると、私はその店を手伝った。掃除に洗濯。あとはお客様のシャンプーもしたね。朝起きると開店準備をして、学校から帰ってくると店に出て働く。休日は一日働いたね。友達と遊んだような記憶はないね」

弟を進学させるため、理容室として独立

平太郎さんの弟・正さんは学業成績が優秀で大学進学を夢見ていた。だが叔父は、弟を洗濯屋に奉公させることにした。そこで平太郎さんは大きな決断をする。

「私は高校へ行くのを諦めた。弟をなんとか勉強させてやりたいと思ったんだよね。そこで、理容室だったら仕入れも無いし腕一本で稼げる。そう思って専門学校に進学して修行し、19歳の時に熊谷に店を出し、弟を熊谷高校へ入学させた」

弟は中央大学法学部を卒業。朝日新聞社で編集局長として活躍し、朝日新聞ジャーナリスト学校長や母校の客員・特任教授を務めた。

一方、平太郎さんは1965年頃から「これからは美容の時代だ」と考えた。女性の社会進出が加速する中、出勤前の朝の忙しい時間帯にセットがしやすいカットやパーマを研究。ロサンゼルスやロンドンに渡り、その後の世界の美容技術の基礎となった理容出身のヴィダル・サスーンの「サスーンカット」を採り入れ、1978年吉祥寺にカット&パーマの美容室を開業した。

松本平太郎美容室

「屋号は、曾祖父の為平、祖父の太刀太、父の一郎、それぞれ最後の文字をもらって松本平太郎美容室としたんだよね。私は、恩師から言われた『誠実によって得たる信用は最大の財産』という言葉を大切にしているんだけど、先祖の名前を背負うことでその言葉を実践する決意を表したんだよね」

その後、会社は31店舗まで成長し、社員数も数百名規模となった。都内に限らず、宇都宮や前橋、郡山にも出店。高品質なサービスを手の届く価格で提供すること。待遇も含めて社員を大切にすることをモットーに経営した。また、業界に先駆けて、全面禁煙を導入するなど新しい取り組みを積極的に行った。

亡き父に代わって叔父の慰霊に

そんな美容室事業と並んで力を入れてきたのが、戦没者遺族としての活動だ。平太郎さんはもう1人の叔父の五郎さんをグアムの戦いで亡くしている。

「父は、末っ子だった五郎さんをとてもかわいがっていたんだよね。五郎さんは、結婚式を控えて徴兵された。通信兵として満州、そしてグアムへと向かった。彼からはちょうど100通の手紙が駒込の私たちの家に届いていたんだよね。私宛の手紙もいくつももらったよ。幼い私が読めるように全部カタカナで書いてくれていたんだよね。最後にグアムから届いた可能性のある手紙は、お別れの手紙のようだったね」

五郎さんから平太郎さんに届いた手紙(一部抜粋)

平太郎さんのお父さんは、五郎さんの墓石を作る時も幼い平太郎さんを石屋に連れて行っては思い出話をしたという。若くして亡くなった父がもし生きていたら、かわいい末っ子の供養を大切に取り組んだだろう。父の代わりに長男である自分が五郎さんの慰霊をしなければ。平太郎さんは決心した。

「戦没者遺族としてグアムでの慰霊に参加するようになり驚いたんだよね。てっきり遺骨はほとんど帰還しているのかと思っていたんだけど、厚労省発表によると戦没者19,135名に対して帰還したご遺骨はわずか520柱ほど。日本軍が戦った各地の遺骨の収集状況が平均45%ほどなんだけど、グアムは約3%。これはなんとかしなければと思ったね」

叔父が戦った山を背に

平太郎さんは、グアムの日本人会の有志がグアムの戦いで亡くなった方々への慰霊を行うことを目的にピースリング・オブ・グアムという団体を設立したことに呼応して、日本側の団体としてピースリング・オブ・グアム・ジャパンを立ち上げた。現在は、NPO法人となり、毎年グアムで開催される慰霊行事に参加。日本でも3月に千鳥ヶ淵戦没者墓苑での慰霊行事を行っている。また、遺骨収集の推進のために厚生労働省や政治家への陳情や写真展、若者向けトークイベントなどの啓発にも取り組んでいる。だが、遺骨収集は簡単には進まないという。

進まない遺骨収集。直面する壁

「グアムはアメリカ領。日本人の意向で簡単に遺骨を収集することができるわけではないんだよね。現地法令で、公文書等により確実に遺骨が埋まっていることが証明できたとしても掘れないんだよ。生き残った人から『この付近で埋葬した』といった証言が残ってたり、現地の方から『このあたりに洞窟があって遺骨がありそうだ』なんて情報をもらったりするんだけど、どうすることもできないんだよね」

公文書や証言でここに遺骨があると分かっていても、遺骨探査レーダーに反応するか、何らかの原因で遺骨が偶然露出してきた場合などでなければ掘り起こすことができないという。この現地法令の大きな壁に遺骨収集事業は直面している。また、遺族とその他の方々とでは遺骨収集に対するモチベーションが異なる現実もある。

遺骨収集の様子

「2009年11月、水道工事の現場から遺骨が発見されたと現地から連絡があったんだよね。なんとか祖国に連れて帰りたいと思って駆けつけたんだよ。2010年1月~1月にかけて9柱引き揚げたところで、まだ2柱ご遺骨が残っているのに途中で埋めて戻してしまったんだよ。後になって考古学者が入院して遺骨の鑑定ができないからと言われたんだけど、考古学者なんて何人もいるのにね。それから6年くらいかな。遺骨収集を担当している厚生労働省や政治家に何度もお願いしてようやく2016年に再び掘り起こすことになったんだけど、その時に日本側の担当者から『これで勘弁してほしい』と言われたんだ。公文書では72柱ほどご遺骨が埋まっていることが推定されていたんだけどね。他にも、現地の探検家が洞窟の中でご遺骨を発見したんだけど、すぐ引き揚げたいと言っても、日本側の担当者から『いまは雨期だから来年まで待て』と言われてしまってね。雨期が過ぎてから見に行ったら行方不明になってしまったんだよ。そんな話ばっかりで、本当に亡くなった兵隊さんたちが浮かばれないよね」

戦後80年を控え、次世代への思い

来年には戦後80年を迎える日本社会。いまだ進まない遺骨収集。一方で、当時を知る者は少なくなり、戦争の記憶が薄れていく。平太郎さんは、これからの時代を担う若者に、平和な社会の構築と戦没者への祈りを受け継いでほしいと願っている。

「まずは風化させないことが大事だよね。慰霊式典の代表者挨拶も形骸化しつつあるように感じるね。先の大戦で亡くなられた方々の犠牲を忘れず、戦没者の方々を敬う気持ちを繋いでいきたいと思うね。自分も高齢なのでいつまで元気でいられるかわからないので、後継者育成をしていきたいと思っているよ。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ。ここ数年はニュースを見て、毎日憂鬱な気持ちになっているね。私たちの活動は雀の涙かもしれないけど、日本の若者が平和の担い手となるきっかけになればと思っているね」

3月に開催した若者向けトークイベント

「先の大戦に対していろいろな考えの方がいるけれども、私個人はあの戦いは一体なんのための戦いだったんだろうかと思っているね。残念ながら、戦没者慰霊や遺骨収集に関心のある方の中には、戦争を肯定する意見の方も少なくない。この前も、アジアを解放するための戦争だったと言われたよ。たしかに、結果としてアジア諸国が戦後独立するきっかけにはなったかもしれないよ。でも、解放のための戦争でどうしてアジアの人々が約2,000万人も亡くなっているんだろうか。また、多くの餓死者を出し、将来ある日本の若者が大勢亡くなったことはどう考えるんだろうか。残された家族は戦後、本当に苦労したよ。良い戦争、正しい戦争なんてものはないんだよね」
戦争を直接体験し、戦後の平和を築いてきた世代の多くが鬼籍に入る中、ご遺骨の帰還なくして戦争は終わらないという強い思いを胸に、平太郎さんは第一線で戦い続けている。様々な世代や立場を超えて、多くの方々に遺骨の帰還について関心を持っていただけることを願っている。

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