7浪の末、54歳で医師に!3児の子育てをしながら、それでも医師になった思いとは。

7浪の末、54歳で医師に!3児の子育てをしながら、それでも医師になった思いとは。

54歳で医師になった新開貴子さん。現在59歳、6年目の医師だ。

学生時代は落ちこぼれだったと語る新開さんが医師を志したのは32歳のとき。そこから実に20年以上をかけて医師国家試験に合格した。さらにその途中には、結婚と3人の子どもの出産、育児も経験している。

なぜ、諦めることなく医師を目指すことが出来たのかに迫った。

「母親にも父親にも私という存在がいない」と感じた島根時代

新開さんは島根県松江市の生まれだ。母親は高級クラブや薬局を経営していた。父親もその手伝いをしていたため、両親は家にいないことが多く、不仲で喧嘩している姿ばかりを見せられた。代わって新開さんの子守りをしてくれたのは近所に住む身寄りのないおばあちゃん。新開さんが育ったのはそんな家庭環境の下だった。

「寂しくてストレスを感じていたんだと思います。4歳頃からまつ毛と眉毛を全部抜くようになってしまっていました」

後に医師を目指すことになる最初のきっかけはこの頃に経験している。それは、おばあちゃんに連れて行ってもらった夏祭りでのこと。

「金魚すくいの金魚を地面に落としてしまったんです。土の上で跳ねる金魚を見て、幼い私はどうしていいかわからずもう苦しくて。『どうしよう!どうしよう!』って。そうしているあいだに金魚は動かなくなって、心の中が罪悪感でいっぱいになりました。『自分が死なせてしまったんだ』って」

この出来事がきっかけで、小学校に上がると捨て猫や捨て犬を見つける度に家に連れて帰ろうとしたり、エサを持って行ったりするようになった。道端に置き去りにされていた動物を友達が連れて帰らなかったことを知ると、その友達を責めることすらあった。“命を救うボランティア”に燃えた。

「古切手を集めて、ネパールの子どもたちにワクチンを送る活動があることを知ったときには、誰に頼まれたわけでもないのにポスターを作って街中に貼ったり、学校や電話ボックスに古切手を入れる箱を置いて回ったりしました。そういったことが当時の自分の生きがいになっていましたね」

勉強は家庭環境のストレスで手につかなかった。小中と学校の成績はいつも悪かった。

「中学生のときには数学の答え合わせで、どうせ答えられないだろうからって先生が授業中に私を飛ばしたこともあります。成績はクラスで最下位だし、学年全体でも底辺にいました。そんな私に先生からは『お前はダメだ!』と可能性を否定する言葉をぶつけられて。かと言ってスポーツができるわけでもなく、自分には何の取り柄もないと劣等感が大きくなっていきました」

両親は家の外にそれぞれ別のパートナーを作った。崩壊していく家庭の中で「母親にも父親にも私という存在がいない」と感じていた新開さんは、中学生の頃には髪の毛まで抜くようになっていた。

高校は偏差値の低い学校へかろうじて入れたものの、2年生のときに両親は遂に離婚。この環境から抜け出したいと高校卒業と同時に上京し、東京女学館短期大学英文科に進んだ。

父親の死をきっかけに医学の道へ

短大卒業後はレナウンに就職し、海外事業部で輸入業務に携わった。3年後には日本航空に転職し、羽田空港でグランドスタッフとして働く。しかしその一方で、20歳頃から食べ物を口に入れるのが怖くなり、徐々に摂食障害に苦しむようになっていた。食べては吐きを繰り返して体重が15キロ近く落ちたこともあり、人間関係にも悩み、限界を感じて25歳で島根の実家に戻った。

「一度自分自身を見つめ直して立て直さないといけないと思いました」

そして26歳のときに、母親の薬局を手伝いながら島根大学教育学部に入学して心理学を学び始め、臨床心理士を目指した。大学3~4年時には精神科で、ギャンブル中毒やアルコール中毒、摂食障害など生きづらさを抱えた人たちが集まって共感し合い、振り返りをしていくセルフミーティングを主催するようになる。学びを進める中で、新開さんは自分自身も癒されていくのを感じた。

「私の抱えていたトラブルは、幼少期の『母親に愛されていない』という寂しさが根本の原因だとわかってきました。同時に、母親は決して私を愛していなかったわけではなかったんだと、母親の愛情に気付くこともできました」

一方で臨床心理士の限界も知った。

「臨床心理士は医師と患者さんの間に立つポジションだけど、患者さんからいろいろ情報を聞いてこういうやり方の方がいいんじゃないかと思っても、主導権は医師が握っているので結局自分で治療方針は立てられない。それに摂食障害の場合は過酷なものになると、脳が萎縮したりして生命の維持も危なくなります。臨床心理士は心を診るスペシャリストですが、そうなると心だけを診ているわけにもいかないのに、身体のことは知識が無いから全然わからないんです。もどかしさがすごくあって、自分が思う医療をするには医師になった方がいいんじゃないかと思うようになりました」

だが周りはいい顔をしなかった。

「10人くらいに相談しましたが、ほぼ全員に反対されましたね。『今から医者になるなんて。もっと他にやることがあるよね?』と言う人もいました」

そんな中、応援してくれた数少ないうちの一人に父親がいた。父親は離婚後、同じ町内で中華料理店を営んでおり、新開さんは父親の店もときどき手伝っていた。ある日、その父親の店が2日間閉まったままだと、近所の酒屋の従業員から連絡を受ける。新開さんは合鍵を持って急いで駆け付けた。

「扉を開けると父が厨房で倒れていて、息をしていないことは誰が見ても明らかでした」

警察は自殺との判断だった。

「父は母と離婚後に別の人と再婚したものの、また離婚して一人でした。糖尿病を患っていて入院していた時期もあって、ふらつきがあるともよく訴えていましたが、私はあまり取り合っていなかったんです。後からわかったのですが、いろいろなところから借金までして、お金に困っている知人に配って回るようなこともしていました。きっと父は寂しくて誰かと繋がりたかったんだと思います。亡くなる数日前に私が薬局の配達でお店の前を自転車で通ったときも、外で立っていた父に『寄って行けよ』と言われたのに『忙しいから後でね』とあしらってしまっていました。あのとき行っていたらという思いは今でもすごくあります。優しい言葉をかけていたら違ったのかなって」

新開さんの医師への思いに、周りが反対しても味方をしてくれた父親に寄り添うことができず、救えなかった。体調が悪くなっていることにも気付いていたのに…強い後悔の気持ちが湧いた。

そして、新開さんは医師になることを決意する。32歳のときだった。

試験の休み時間に搾乳も。子育てをしながら7浪を経て医学部に合格

医学部受験に向けて最初に始めたのは、大嫌いで仕方なかった数学を中学1年生レベルからやり直すことだった。

「女性の先生が一人で経営している小さな数学塾で、先生自作のプリントを使って問題を解いていくことを繰り返しました」

数学塾には薬局の手伝いを続けながら2年間通い、2年目には並行して松江市内の予備校にも通い始めた。ここで後に夫となる11歳年下の前島充雅(みつまさ)さんに出会う。充雅さんは横浜国立大学数学科を中退し、新開さんと同じように医学部を目指していた。そんな充雅さんに新開さんが数学を教えてもらおうと近付いたことがきっかけで交際が始まった。

その翌年、充雅さんが進路を変更して九州大学工学部に合格したのを機に、新開さんが34歳のときに結婚。2人で福岡に移った。新開さんは医学部受験を続けながら35歳のときに妊娠。重いつわりで体重が5kg減り、5ヶ月の入院の末に36歳で長女を出産した。

「女性としてやっぱり子どもを産みたかったです。実はその前の年に流産していましたし、年齢的なこともあって、受験をしているからと言って出産を先延ばしにはできませんでした」

受験勉強に加え、夫や母親に協力してもらいながらの育児も始まった。予備校近くの保育園に預けた長女のもとへ、講義の合間には授乳にも駆け付けた。

「授乳期って胸がパーン!って張ってきてものすごく痛いんです。試験本番の最中でも張ってくるし、痛くて集中できなくて休み時間にトイレで搾乳もしました。終わって出たら行列になってるんですよ(笑)。みんなに『何やってんのこの人は!?長いなぁ』って白い目で見られて(笑)もう『すみません…』という感じでトイレから出ましたね」

大学を卒業して北海道勤務になった充雅さんについていき、苫小牧で受験生をしていた頃にはこのようなことがあった。

「ベビーカーで長女を連れて外出していたとき、都内の医学部の翌日必着の願書を本屋で見つけました。郵送していたら間に合わない。でも直接持って行ったら間に合うかもしれない。実はそのとき長男もお腹にいたのですが、長女を連れたままその足で新千歳空港に向かい、羽田行きの最終便に飛び乗って何とかギリギリで願書を提出しました」

3人のお子さん。医学生時代、自習室の片付けを手伝ってもらった後に。現在、長女は薬学生、長男はハンガリーに留学中の医学生、次男は高校生

それでも不合格の日々は続いた。試験になるとアガってしまい、頭が真っ白になって解ける問題が解けなくなったり、問題用紙のページを飛ばしてしまったり、周りの受験生の鉛筆の音が過剰に気になり、集中できなくなってしまうことにも悩まされたからだ。5浪目になると精神的に不安定にもなった。

「主婦でもなく働いているわけでもない。いつまでも社会的なポジションが無い自分は何者なのかと感じて不安でした」

受験を続けていく中で、なぜ落ちたのか釈然としない大学もあったそうだ。

「一次試験に受かって、二次試験も上手くいったはずなのに落ちたり。手ごたえがあって、自己採点でも点数が足りているのに不合格になったところもありました」

後に複数の医学部で女性や多浪の受験生を対象に不当に減点するなどの調整をしていた問題が発覚している。新開さんは「もしかしたらその影響もあったのかもしれない」と振り返る。願書を見つけて羽田行きに飛び乗ったのも、当時からその噂を耳にしており、1年でも早く受かりたいと焦っていたからだ。

そんなとき、愛知県にある藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学)医学部に、新開さんより高齢で受かった男性の合格体験記を読んだ。出版社に連絡をしてその男性とコンタクトを取った。

「その人が『藤田は高齢の学生も多いから採ってくれるよ』と教えてくれました。それで藤田を受けてみることにしたんです」

すでに7浪目に突入していた。
「今年ダメだったらもう諦めよう」そう考えていた中、遂にその藤田保健衛生大学の合格を、20倍の倍率をくぐり抜けて勝ち取る。

「予備校に合格を報告したら講師もスタッフもみんなすごくビックリして『おめでとう!やったね!』じゃなくて『え!?そんなことある!?』みたいな。誰も受かると思っていなかったんですよね(笑)」

浪人を繰り返す新開さんに、講師陣は教えながらも、合格は無理だろうと内心感じていたのだ。しかし、この医学部合格が後にその中の一人の講師の未来をも変えることになる。

40歳の春、新開さんは夫を単身で北海道に残し、子ども2人と大学の近くに引っ越して医学生になった。

最初のセンター試験の受験票

「暗い歴史しかない」医学生時代。3度目の挑戦で医師国家試験に合格

医学部での新生活は1年目こそ順調だった。同期の友人もできた。

「子どもがいる学生っていないからみんな面白がってくれました。一緒にご飯に行き、子どもたちとも仲良くしてくれていましたね」

しかし2年生のときに太ももに腫瘍が見つかり、手術をすることに。

「良性と悪性のあいだの境界悪性でした。でも実は悪性だったんじゃないかって心配で勉強に集中できなくて。幸い、後遺症や再発もなく過ごせています」

次男の出産も重なり、最終的には学年末の総合試験で留年してしまう。この時は恥ずかしさのあまり、同期に会わないよう裏門からキャンパスに入るなどしてしまっていたという。

家庭では、島根から来て住み込みでサポートしてくれた母親や、途中で転職して合流してくれた夫の存在があったものの、家事と3人の育児、勉学の両立は過酷を極めた。

「朝4時に起きて勉強して、7時半とか8時には子供を保育園に預けて。授業が終わるのが夕方の4時くらいだから、そこから少し勉強して7時に子供を保育園に迎えに行って、9時に寝かしつけた後は24時間空いている大学の自習室で12時まで勉強していました。授業が終わっても、そこからまた新たな仕事のような時間が始まる感覚で、お風呂にゆっくり浸かったりテレビを観たり、そういうゆったりとした時間はまったくなかったです。休日に子どもを遊園地や公園に連れて行くときも必ずテキストを持って、隙を見つけては読んでいました。プライベートで一人になれる時間はないし、とにかくお盆も年末年始もありませんでした。ずっと寝不足でしたね」

当時の教材には書き込みがびっしり

また新開さんが頭を抱えたのがお金の問題だ。入学金の720万円に始まり、毎年の年間授業料が600万円と学費がかさみにかさんだ。

「お金をかき集めるのがもうすごく大変でした。必死だったのでキャバクラで働こうとしたこともありましたよ。お店に電話をしたら年齢を聞かれたので『42歳です』って答えたら『は!?』って(笑)『待ってください!42歳ですけど周りからはそう見えないって言われるんです!1回会ってください!』って食い下がったんですけど、ガチャン!(笑)学費は家庭教師のアルバイトや、全国のいろいろな奨学金で賄いました。卒業までに借りた金額は全部で7700万円になりましたね。今は1/3ほど返済できたでしょうか」

試験前になると、どこが出題されるのか教授陣に聞いて回った。

「再試験になったらどこがダメで落ちたのかも聞いたり、受かるためならもう何でも徹底的にやりました」

一方で、家事育児に加えて膨大な勉強量へのストレスから、様々な精神的不調にも苦しめられた。レシートや消しゴムのカス、髪の毛にいたるまで自分が出したあらゆるゴミをすべて持ち帰らないと気が済まない強迫観念にとらわれたり、アルコール依存症や眠れなくなり睡眠薬も効かなくなる“睡眠剤地獄”にも陥った。最終的にはうつ状態にもなった。

「だからもう暗い歴史しかないですよ、医学部の時代は。受験生のときもつらかったけど、医学生のときの方がもっとつらかったです」

これらの症状はカウンセリングや大学内の精神科を受診することで克服していった。また大事な試験ほどアガってしまって問題が解けなくなってしまう悩みも、受験生時代から変わらず続いていた。

「これがすごくネックになって、何年も悩みました。試験前になると吐き気も止まらなくなって、私の吐き気が始まると主人も子どもたちも『あ、試験がもうすぐだね』って言うくらい。自分がどうかなってしまいそうなほどつらかった。アガらないための本を読んだりもしましたが、試験へのこの強い苦手意識は、小中学生の頃に『お前はダメだ!』と言われ続けたトラウマからでした。これは催眠療法を受けることでだいぶ改善されてはいきました」

大学は2度目の卒業試験で卒業。医師国家試験も3度目の受験で合格した。

32歳で医師への挑戦を始めて22年、54歳で遂に医師免許を手に入れた。家族でささやかなお祝いをした。

母親の睦子(むつこ)さん(中央)と充雅さん(右)

医師としての現在

新開さんは医師免許取得後、婦人科や産婦人科、いくつかの医療機関での勤務を経て、現在は名古屋大学病院で総合診療科の専門医になるための研修課程にいる。総合診療科とは、特定の臓器ではなく文字通り全身を総合的に診る診療科で、その専門医資格も2018年度より新設された新しい分野だ。

「とても画期的な診療科だと思います。他の科でわからなかった患者さんもたくさん来ますし、難しい病気も多いです。全身を診るということは、私が今まであまりやってこなかった内科的なことも含めて、幅広く対処できるようにならないといけないので、すごく勉強にもなります」

加えて土日には訪問診療業務にも従事している。訪問診療では高齢者や終末期患者のケアをすることも多い。

「患者さんやご家族のニーズを探りながら、ただ治療だけをするのではなくできる限り寄り添うことで、どんなときもその方なりの希望が持てるように支えていけたらと思って診療に当たっています」

ほぼ休みの無い忙しい毎日だが、それでも患者と接する日々は何よりも充実しているとも話してくれた。

もう一つ新開さんが今関心を抱いているのが脳脊髄液減少症の治療だ。低脳髄液圧症候群とも言われ、脳や脊髄を浮かべている髄液という体液が漏れ出ることで、頭痛、めまい、吐き気、全身の倦怠感、記憶障害といった様々な不調を引き起こす疾患だ。まだ医学的に解明されていない部分も多く、患者は国内に数十万人いるとされる。

「この病気の有効な治療法になり得るかもしれないブラッドパッチ療法というのがあります」

ブラッドパッチ療法とは、髄液が漏れ出ている箇所を患者自身の血液で塞ぐ治療法である。穴を血液(ブラッド)で、補修(パッチ)するということだ。2016年に保険適用がなされたものの、実施している医療機関や医師はまだ少ない。いずれはこの治療法にも携わることができたらと展望を描いている。

「高校生まで経験した絶望は、医師になってようやく救い出せた」

新開さんは医師になるまでの道のりを振り返り、こんな複雑な思いも口にしていた。

「20年以上かかることがもし分かっていたとしたら、やっていなかったと思いますよ」

しかしそう言いながらも諦めきれず、医師を目指し続けた半生を聞いていると、新開さんにとって医師になることは“あこがれ続けた長年の夢”以上の意味を持っているように感じられてくる。

訪問診療の様子を語っている中で、こんなことを言っていた。

「こうやって医師の資格を持たせてもらって、私が来たことで、救われている人がいる。そのことによって、私に医師という役割を果たさせてもらえているという意味で、私自身も救われているんだと思います」

また、こうも語っている。

「私が高校生まで島根で経験した絶望は、私が医師になってようやく救い出せたし、今それが私の何よりの喜びでもあります」

新開さんは島根にいた頃、学校では劣等感を募らせ、家庭では愛情に飢え、その結果「存在価値が見出されなくて、生まれてきた意味がわからなくなった」という。

医師になることは、その苦しみを解消しきれないまま心のどこかで引きずり続けてしまっていた新開さん自身を、救うための戦いだったのではないだろうか。

実は、小学校の卒業文集に「将来の夢は医者」と書いている。幼い頃の夏祭りでの出来事から32歳で決断するまでの期間は、胸にずっとしまっていたその思いに向けて、傷付いた自身を奮い立たせ、決意を固めるために必要な時間だったように思えてくる。

そして医師になった今、患者を治療し、救うという行為の一つ一つが、かつて生まれてきた意味がわからなくなっていた新開さんに、人生で担う役割を気付かせてくれ、癒し、救い、肯定し続けてくれているのだろう。

新開さんの生き方が他の人にとっての希望に

新開さんが医師になったことによって救ったのは、自身だけではない。辿ってきた道は他の人にも希望を与えている。

新開さんのもとには、年齢を重ねてからの医学部受験を検討している人たちが相談に来るようになった。

「受験する大学を選ぶ際のポイントや、奨学金に関する情報を伝えています。そのほかに家庭との両立のアドバイスなどもしていますね。挑戦したい気持ちがあるのなら、背中を押してあげるようにしています」

他にも同じような境遇の人たちから、新開さんの存在が医学部受験を志す上で勇気をくれたという内容のメッセージも届くそうだ。

「一人でも多くの方に、勇気を持って夢に向かって一歩を踏み出していただきたい。大それた資格などでなくてもいいんです。その励みになるよう応援していきたいです。それも私の使命の一つだと思っています」

通っていた予備校の講師たちも、新開さんの医学部合格に驚いただけでは終わらなかった。その中の一人の男性講師も医師を目指して医学部に入学。その後、実際に医師になった。彼もまた胸に秘め、諦めかけていた夢を叶えたのかもしれない。

この記事の写真一覧はこちら