PR代行業やPR塾を運営する株式会社LITAの代表取締役である笹木郁乃さん。女性経営者として注目されることも多いですが、その半生を振り返ると、困難を自力で乗り越えてきた努力家としての一面を垣間見ることができます。今回は笹木さんの幼少期から現在に至るまでのストーリーを追いながら、地道に努力を重ねた女性経営者のロールモデルとして紹介します。
小学2年のとき交通事故で脳の手術を経験
もともと「やんちゃ」な子どもだったという笹木さん。交通事故に遭い意識不明になったのは小学2年生のときでした。医師からは「20歳までに後遺症が出るかもしれない」と告げられたといいます。
親から聞かされたその言葉は、子どもながらに緊迫感を持ったそう。
「九死に一生を得た私は、命の恩人である医師の存在が大きく感じられました。また兄弟が多かったため、親が付き添えない日もあり、ひとりの夜は心細くて泣いていました。そんな私に寄り添ってくれた看護師さんの影響もあって、自分も人の役に立つ仕事がしたいと思うようになりました」
それと同時に強く感じたのは“明日が必ず来るとは限らない”ということ。
小学2年で死の恐怖と向き合った笹木さんは「いつ死んでも後悔しないように生きなくては」と考えるようになったのです。
幸せ。でも貧しい家庭。挑戦できないことがジレンマに
「私は4人兄弟で、両親の愛情いっぱいに育ててもらいましたが、父がうつ病で働けなくなり、母も専業主婦という家庭だったので、金銭的に余裕のある状況ではなかったです。洋服は近所の子どものお下がりは当たり前。習い事など行けるはずもありませんでした」と話す笹木さん。
「お金がなくても、間違いなく幸せだった」という笹木さんでしたが、家の周辺で虫取りをして遊ぶ日々に人生を持て余しているような感覚を抱きます。
“挑戦したいけど、お金がないからできない”と思うようになり、習い事に行く周囲の友達が羨ましかったそうで「挑戦したい!」という気持ちを親に言うこともできず…。理想と現実のはざまで、小学生の笹木さんは情熱の火種をくすぶらせていました。
そして中学でようやく情熱を傾けられるものに出会います。それが吹奏楽部で出会ったサックスでした。さらに進学した高校は吹奏楽が強く、県大会出場の常連校で全国大会を目指すレベル。部活に勉強にと刺激のある学生生活を送ることになります。
後遺症が頭をよぎる20歳のころ、命を燃やせるものを探す
19歳になった笹木さんは、国立の山形大学理学部数学科に入学。
「大学入学後、再びモヤモヤする時代に突入します。周囲は大学生になって楽しそうに羽根を伸ばしているのですが、私には“20歳”“後遺症”という言葉がよぎっていました」
タイムリミットが近づいているという感覚が、笹木さんを駆り立てます。
「この命を何につかうべきなのか」と、数学科の学びで直接的な社会貢献を見出すことができなかったことも笹木さんを悩ませる原因となっていました。
そんなとき、工学部ならものづくりの現場で知識を活かしていけると考え、理学部から工学部へ、大学初の転部を申し入れます。
「転部したからにはやり遂げよう!」と目標を掲げ、大学を首席で卒業。卒業後は超大手企業アイシン精機株式会社の研究職で就職するという華々しい道を辿るのです。
しかし、希望に満ちた社会人生活は思うように行きませんでした。
「憧れの企業に入社して3年経っても部品設計に情熱が持てず、世の中に貢献できている実感を味わえないままで、すっかり自信を失ってしまいました。そして、ついに朝起き上がれなくなり会社に行けなくなってしまったんです」
精神科に行ったところ、医師から「その環境が向いていないのだと思う」と言われたこともあり、転職を決意。
転職するときに参考にしたのは自己分析だった
いろいろな診断テストやSPIなどの自己分析を繰り返し、自分にあった職種を探すことにした笹木さん。
「実際に自己分析をやってみると、研究職は向いていないという診断が出ていました。一方で広報やPR、営業が向いていると診断され、大企業が向いていないというのもわかりました。大手はすべてにカチッとした型があり、自由度が低いうえに自分がいなくても回っていく特性があります。私はそういった環境にも存在意義を見出すのが難しくなっていたんだと、自己分析で気づきました」
そこで思い出したのが、幼少期に助けられた医師の姿でした。
「私を助けてくれた医師のように、私も会社の救世主になりたい」
そう思って転職先を探していくことになります。
自己分析により、笹木さんが転職先に選んだ会社は大企業ではなく、まだ名の知れていない小さな会社でした。
転職先で出会ったPRという仕事
しかし、営業未経験での転職活動はなかなかうまくいきません。
唯一合格をもらえたのは、寝具メーカーの会社でした。
「普通面接って、採用を決める側と決められる側というポジションになりますよね。でもエアウィーヴの社長は違いました。“一緒に日本一になろう!”と情熱をもってプレゼンテーションしてくれたのです。生きる目標を失いかけていた私にとって、社長の言葉は“人生の目標が降ってきた”と思えましたね」
そんな情熱に打たれ入社するも、今までやったことのない営業職に、笹木さんは想像以上に苦戦します。なぜなら、緊張で体が動かないのです。
「社長に“椅子におしりがくっついている”と言われるほど最初の1年間は動けませんでした。怖かったんです」
その後、会社には外部コンサルが入り、広報・PRなどを徹底的に習得していきました。
あるとき、店頭販売していた笹木さんは、競合である他社のブランドが「雑誌で見た」という理由でするすると売れていくのを目の当たりにします。多くのメディア掲載に裏付けされたブランド力の差を実感した笹木さんは「これか!」と確信し、PRに力を入れます。一流アスリートであるオリンピック選手をモデルにしたのも功を奏した理由のひとつ。“宣伝感”が出ないような演出を絶妙なさじ加減でコントロールしたのです。
結果、その会社は急成長しました。
PRの力を信じて突き進むと、そこには新しい世界が待っていた
その後、出産と1年間の育休を経てカムバックするも、会社に居場所がなくなったと感じた笹木さんは、転職を考えます。
「エキサイティングなPRのスキルを活用してもっと企業を支援したい!」その思いをもって鍋製造の会社へPR・マーケティング職で転職。
前職で実績を積んだ笹木さんは、そのノウハウをもってPRした商品は12ヶ月待ちの人気商品となります。ただ、その裏ですべて職人が手作りしていた鍋は製造が追いつかないという状況に陥り、皮肉なことにこれ以上のPRが不要となってしまったのです。
“もっと挑戦したい、大好きなPRの仕事で!”
そう考えた笹木さんはブログやSNSで認知を広げ、1時間3000円という価格でコンサル業をスタート。そのときの心境を「1年間は修行と思ってやりました。そのときの経験が私を鍛えてくれたし、口コミも私の背中を押してくれました」と振り返ります。
そして2016年、ついに個人事業主になりPRプロデューサーとして始動するのです。
認知が広がりお客さまが増えてくると、事業拡大のために会社を設立し社員を増やしていくことになります。
途中、社員との気持ちにズレが生じ、9割の社員が辞めていくというピンチを経験しますが、経営者としての学びや組織づくりなど環境を整えることで、人は定着するようになっていきました。頼れる社員が増えていくことで、事業は拡大していきます。
そして、チームの力で大きなことを成し遂げ、社会へ貢献したいという思いが強くなった笹木さんは、2019年社名変更を行い株式会社LITAへ。
LITAとは利他を意味しています。PRという仕事は、自分の利益よりも時とや企業・世の中を思いやる心が大切だという思いを託した社名です。
実際、LITAには上場企業を含む1600社以上の顧問実績があり、PR塾を中心として、8000人以上のキャリア支援を行い、たくさんのPRプロデューサーを輩出。こうしてPRという名の利他の精神は脈々と受け継がれています。
LITAの代表、笹木郁乃さん。その生き方を紐解いてみると、幼少期のケガを機に命のリミットを知り、そこから「命ある限り誰かの役に立ちたい」と願った、泥臭く、一途な姿勢が今に繋がっていることを知ります。日本一のPR会社を目指し、笹木さんは今も挑戦を続けています。