アメリカの名門女子大学であるWellesley Collegeに通う山邊鈴さんは、昨年から大学を休学して帰国。なんと、東京・高円寺にある銭湯でインターンをしているという。
なぜ、グローバルな世界からローカルなコミュニティに行きついたのだろうか。その意外なキャリアに迫った。
「長崎県で生まれ育ちました。小学校の卒業文集に、国連職員になりたいと書いたように、小さい頃から世界の困った子どもたちのために働きたいと考えていました。その背景には、もし70年ほど前に生まれていたら、私は原爆で亡くなっていたかもしれないという、いまの生活への儚さを感じていたことがあるのだと思います。たまたま運の悪い人生になってしまった人のために自分の人生を使うことが当たり前という感覚を持っていました」
その後、中学2年生の時に国連があるスイスを訪問する長崎県のプログラムに参加。ここから様々なプログラムに応募し、チャレンジするようになる。
「スイスに行って、国連職員の方々を目の当たりにして憧れました。でも、そういう憧れの人のようになりたいのか、はたまた世界平和のためにもっと現場で暮らしている人と共に課題に取り組みたいのか、迷うようになりました」
その迷いに対する答えを探しに、中学3年生の時にフィリピンに向かった。国境なき子どもたち「友情のレポーター」というプログラムで、約1週間マニラで鑑別所に収監されている子どもたちにインタビューをしたり、スラム街に暮らす子どもたちにインタビューをしたりした。
「鑑別所の中に、すごくかっこよくてクラスの人気者になりそうな子がいて。彼がもし自分のクラスにいたら、友達もたくさんいて楽しい学校生活を送っていただろう。なぜこの子は塀の中にいて、私が外から話を聞いているのだろうか。深く考えさせられました。他者の人生の痛みに踏み込むことは怖いし、関わらない方が自分は幸せでいられるのかもしれない。でも、この人たちの声を届けなければ、状況は変わらない。悩みつつも、こんな世界があるということを発信していかないと、無いものにされてしまうと思いました」
そうして自ら企画書を作り、市役所を通して地元メディアに自身のことを取材してほしいと営業。新聞やラジオで体験を伝えることができた。
高校2年生の時には、1年間インドへ留学した。ある日本人のガンジス川の風景を詠んだ詩に惹かれ、ホームステイをしながら現地の高校へ通った。
「インドの魅力って混沌としたところだと思います。私はあえてその環境に身を置き、それでも自分の『世界の困っている子どもたちに貢献したい』という思いが変わらなければ、その気持ちは本物だろうと考え、自分を試すために渡航しました」
「朝起きて、ご飯を作って、学校に行って、帰宅して今日何があったかを話して、そして寝る。長崎であれ、東京であれ、インドであれ、人間の暮らしの根本って変わらないんだなって当たり前のことに気づきました」
留学中、インド・デリーで開催された模擬国連にも参加した。そこで、世界トップクラスの人材が集まる、インド工科大学を目指す同世代と出会い、交流した。
「みんな、口々に将来インドという国をどうしたいか、ということを熱く語っていました。ここまで熱烈に国家像を語れる同世代がインドにはたくさんいるということに驚きましたね。自分はこれまで途上国のために働きたいと考えていましたが、日本の将来について考えるようになりました」
高校卒業後、アメリカ・Wellesley Collegeへ進学した山邊さん。「仕えられるのではなく仕えなさい」という校是がとても気に入ったという。
「経済学や政治学などの仕組みをしっかり勉強したいと思いました。市民の視点で語ることは得意でしたが、もっとマクロの視点も学び、両方の視点で語れる、双方を翻訳できる人になりたいと思いました」
そうしてアメリカへと渡った山邊さんだが、2年間の大学生活を経て、なぜ銭湯スタッフとなったのだろうか。
「マクロの視点だけだと取り残されてしまう人々がいるということはこれまでも意識していました。インドでも、旅行をしたアフリカでも、ハーバードの学生と話していても、人間の幸せって半径数メートルの世界に左右されるのではないかと感じました。そこで、もっと暮らしとは何か、日常とは何かを考えたいと思うようになりました」
日々の生活の導線の一部となっている場所に身を置きたいと考えた山邊さん。スーパーマーケットでの勤務も考えていたという。そんな中、たまたま休暇中に訪れた銭湯に心を惹かれた。
「小杉湯の言葉は、真と軸があるなと感じました。私は文章を書くことが好きで、コピーライティングの仕事をすることもあるのですが、言葉の力でよりよく見せる、悪くいうと本来のもの以上に良く見せるという側面がありました。でも、小杉湯の至る所に置かれているポップの言葉は、ありのままの魅力を押し付けずにそのまま伝えていて、いいなと思いました」
東京・高円寺にある銭湯である小杉湯は、1933年創業の老舗銭湯だ。定期的に様々な団体等とコラボレーションで実施されるイベントが人気で、多い日には1,000人以上の利用者が訪れる。そんな銭湯で、番台に立って接客をしたり、清掃をしたり、また営業体制の改善に向け取り組んだりしている。
「小杉湯って、誰にとっても居心地が良い場所だと思います。その理由を考えてみると、1つは主体性だと思います。小杉湯では、「サービス提供者」と「お客さん」という線引きがされすぎないようになっているんです。『床がぬれていたら拭いて下さいね』って書いた張り紙があるくらいなので。みんなで小杉湯という空間を作っているという意識をお客さんも持っている。このある程度の主体性って、居心地の良い場づくりにとても重要だと感じました」
「あとは、積極的にみんなに開くのではなく、閉じないという意識ですね。無理に居場所として提示するのではなく、ささやかに開いているという感じです。毎日利用される90代くらいのおばあちゃんがいるんですが、いつも混んでいる時間帯にいらっしゃるんです。ある時、『なんでこの時間帯に来るの?』と聞いたところ『ここなら顔見知りも多いし、倒れても安心だから』って言ったんです。私が小杉湯で働く中で、特に印象的なエピソードです」
「たとえ黙って来て、黙って帰るだけだったとしても、なんとなく社会と繋がっている、生きていて良かったと思える。そんな場所が日常にある。素敵だなって思います」
休学期間も折り返しを迎えた山邊さん。将来は公務員として、日本の社会保障により良い変化をもたらすことを目指しているという。
「以前は、社会を良くしたい、そのためには、取りこぼされている人の声が聞かれるようになることが大事だと思っていました。ですが、小杉湯で働くことを通して、自分が創りたい理想の社会像が見えてきつつあります。それは、なんだかここにいていい気がする場所をみんなが持っている状態です。人間は例外なく身体的、精神的なケアを必要とする、敏感な存在である。そんなことを前提とした社会を構築したいと思っています。子育て家庭やおじいちゃん、おばあちゃんはもちろん、今日はつかれちゃったという人、なんとなく元気を奮い立たせたい人など、いろんな方が自分を、他人をケアする場として小杉湯は機能しています。皆がそんな「ケア」の存在を認識し、そういった場や機会がもっと評価されるようになれば、みんなが居心地の良い社会になるのではないかと感じています」
今年の秋にはアメリカへ一度戻る予定だが、この街がとても気に入ったとのことで、いずれ戻ってきて暮らしたいという。様々な場所で得た気づきをもとに、今度は国家をデザインする立場を目指す山邊さん。これからの活躍が楽しみだ。