29歳以下のユニークなキャリア・ライフを歩む若者のインタビュー記事を配信するメディア「U-29.com」
運営するのはその名も株式会社ユニークだ。
代表取締役の山崎貴大さんご自身も、なかなかユニークなキャリアの持ち主である。そのキャリアと、会社や事業への思い、今後の展望に迫る。
「とっても人見知りでした。小学生の頃、毎年会うのにいとこと打ち解けるまで20分はかかるような状態でした。身内にすらそんな感じなので、中学、高校と入学当初は初対面の同級生に緊張して体重が減るほどで…。新しい出会いに対して不安いっぱいな子どもでした」
自分からは声をかけられない、意見を出せない、でも仲間外れになりたくない。そんな山崎さんだったが、高校の卒業式を終えた直後の春休みに大きな転機が訪れる。2011年3月11日。東日本大震災だった。
「住んでいた茨城もかなり揺れ、家の壁にはヒビが入り、しばらくライフラインが止まりました。発災から5日目の朝にようやく新聞が届き、電気が通り、大きな災害だったことを知ったのです」
「このようなことが急に起こるのか…。昨日まで楽しく遊んでいたのに、能天気にテレビを観ていたのに、一瞬で何もかも変わってしまうのか…。そんなふうに思いました。そして、人生やり残すことのないように、後悔しないようにしなければと強く思いました」
この思いを胸に、大学進学後は別人のようにアクティブに過ごした。もちろん当初は人見知りや受け身な性格が出そうになったが、その度に震災のことを思い返して奮起した。
「観光を学びたいと国際観光学科へ進みました。入学してすぐのオリエンテーションで、和太鼓部の演奏にかっこいいなと思ってすぐ入部。その後、最高学年になった際は部長になりました。大学2年では観光を学びにタイのプーケットへ留学。そこで、留学生がそれぞれの文化を発表するフェスがあり、僕が和太鼓を演奏できると知った周囲からの勧めもあって、日本人留学生たちで和太鼓の演奏をしました。挑戦したことはこうやっていろいろ繋がっていくんだと気づいた経験でした」
他にも、大学3年から所属したゼミでは一人旅をするという課題が出され人生初のヒッチハイクに挑戦。卒論もヒッチハイクについて書いた。茅ヶ崎で学生たちによる観光ツアーの企画をしたり、エコツーリズムを広める活動をする非営利団体が運営する学生団体の関東支部代表を務めたり、積極的に動いた。そうして就職活動を経て旅行会社で働くことになった。
「訪日旅行部に配属され、成田空港で外国人向けに旅行商品を販売するなどの仕事をしました。人間関係も良好で、ホワイトな職場で本当に楽しかったです。でもそれで逆に、このままでいいのかなと思うようになりました。もっと挑戦しようと思い、1年で退職しました」
そこで山崎さんは、尖っている人たちがもっとのびのびとできる場所を作りたいと考え、イベント運営やコミュニティ活動を行う「トガリバ」を立ち上げた。2016年のことだった。しかし、2ヶ月で資金は底をつき、家賃が払えない、食費もないという状態になってしまった。
「親からは実家に帰ってきても構わないと言われていました。でも、前職時代の縁で住み込みで働ける場所を紹介してくださる方に拾っていただき、東京にとどまることになりました。そこは、囲炉裏と火鉢があって、その周りに人々が集まってくる素敵な空間でした。火のある空間の魅力に取り憑かれた私は、もっと多くの人たちにこの魅力を伝えたいと思いました。でも、この価値をまだ知らない人が多く、かつ場所も都心から遠かったこともあり、イベントをしてもなかなか人は集まりません。そこで、自分から働きかけて知ってもらう活動をしないといけないと思いました」
しかしお金がないので、移動販売のような車は買えない。そこで、リヤカーならホームセンターで買った材料で自力で作れるのではと思った。火鉢も作って、炭や灰はもらってきて、そうして鹿児島から歩き始めた。出会った人々と火を囲み、共に食事をしたり酒を飲んだり。出会う人に火のある場の良さを伝え続けた。資金が尽きると現地の農家でアルバイトをするなどし、1000kmを徒歩で移動して岡山まで到達した。
「その頃、よくTwitterを見ていて、ライターや編集者の方ってすごいなって思っていました。自分が言葉にできないもやもやなんかを言語化されていて、そんな文章を読んで気持ちが軽くなったり救われたりする経験を何度かしました。そんな折に、学生時代の先輩が経営している会社で、未経験可の編集者を募集していたんです。思い立って会いに行きました」
リヤカーの旅を中断して、当時社長インタビューメディアを運営していた株式会社オンリーストーリーでインターン生かつ編集長として働き始めた山崎さん。社内MVPを獲得するなど大きく飛躍した。そんな中、社長から直接正社員への誘いがあった。
「リヤカー旅に戻ろうとは思いませんでしたが、また新卒の頃のように週5勤務の正社員というのも何か違うなと。もっと違う働き方、グラデーションがある働き方がしたいと思うようになりました。オンリーストーリーには『成果からの要求』という文化があり、成果を出したら自分の希望も求められる社風でした。そこで、MVPの実績をもとに副業をしたいと希望し、会社初の副業を許された正社員になりました。その頃に、『U-29.com』の発起人とSNSを通して出会ったんです。自分がやりたいと思っていたことがまさに事業化されていることに強く惹かれましたし、トガリバの失敗をリベンジしたいとも思い、まずはボランティアとしてカメラマンをするところから関わるようになりました」
「U-29.com」では、29歳以下のユニークなキャリアを歩む若者を取材していた。山崎さんは徐々に任されることが増え、有償スタッフに。やがて実質的な現場責任者として働くようになる。
「実は、ユニークさって一部の限られた人、選ばれた人の先天的な話だと思っていました。でも、取材を重ねる中で私の考えが変わっていきました。いまでは本当に誰もがユニークさを持っているんだと思っています」
そんな矢先、U29.com創設者から驚きの相談をされる。
「会社にするってどうかなって言われまして。想像していなかったので、一瞬頭が真っ白になり戸惑いました。迷った結果、会社員か起業かではなく、どちらも諦めたくないと。そこで、共同創業者として株式会社ユニークを設立する一方で、会社員も継続するという形をなんとかオンリーストーリーに認めてもらいました。会社員としては今年まで5年以上勤務しました。本当に感謝です。」
取材記事は1,000本を突破。多様な若者のユニークなキャリアを見てきた。前述の山崎さんの言葉を借りると、誰もにユニークさは存在する。しかし、そのユニークさを発揮したキャリアを歩める方は限定的なのではないだろうか。
「1,000人以上の記事を公開してきた中で、だんだんと共通点がわかってきました。キャリアの8割は偶然で生まれるといいますが、まさにその計画的偶発性はカギですね。みなさん本当によく、たまたまだったとか、運が良かったって言うんです。その偶然と語られるチャンスを何度も獲得し、その機会によって自らを変え続けている姿が印象的です、そのためには、好奇心を持って過ごす、柔軟性を持って物事をみる、行動を持続する、一次体験から行動を起こしているといった点がポイントなのだと思います」
今年の途中から正社員×経営者の働き方をやめ、現在は株式会社ユニークの経営に日々向き合う山崎さん。共同創業者との対話から、より決意が固まったことがきっかけだった。
「お金も体力も意思も…あらゆることで兼業の限界を感じました。共同経営者との対話のおかげでいろいろと整理し直して、もっとこんなことができる、もっとこんな価値を出せる、と考えることができました。私たちは、2018年の立ち上げ以来、『コミュニティメディア』として運営しています。取材をした方々との繋がりが資本だと思います。その資本を生かして、新しい価値を生み出そうとしています。取材先どうしのマッチングや、取材先がいる面白い職場や地方へ出向くツアー・イベント企画をはじめ、学校と提携して、講師派遣の選択肢にしていただく、若者のアイデアや意見を求める企業・地方とのタイアップ企画などに取り組んでいます」
まさに転換期であるコミュニティメディア「U-29.com」
これまでも、記事を読んだ多くの方が、納得がいくキャリアや人生を実現するための勇気やアイデア、モチベーションのきっかけを提供してきた。今後はどんな方向に進んでいくのだろうか。
「少子高齢化が進み、労働人口が減り、多分野で既存のシステムも機能しづらくなってきている時代において、若者に求められているのは『発明(イノベーション)』だと考えています。まずは、方法・手段の発明。若者が新しい視点で挑戦することで新しい方法・手段が生まれ、既存の未解決課題の解決が進むと思っています。次に、生き方・働き方の発明。変化する時代に沿って既存の生き方・働き方をアレンジしたり実験したりして、新しい生き方・働き方を創り出すことで、先述のような挑戦、成果が増えたり後の世代の育成、教育にも繋がると考えています」
「株式会社ユニークが提供する価値や事業は、そのような新たな発明が一つでも多く、多様に生まれる土壌、土台を作るものです。そういえば最近いろんな生き方が増えたね、新たなソリューションが増えたよね、これまでは救われなかった人たちに居場所が増えたよね、という変化を今後より実感できるようになっていくであろう中で、その流れが加速するように貢献できたらいいなと思います」
山崎さんは、将来子どもができたら、このコミュニティメディアが生み出す環境の中で子育てをしてみたいという。多様な価値観に小さい頃から触れられる環境で育てたいからだ。自分が子ども時代に欲しかった場所を作っているのかもしれないとも語った。
単なるメディアと侮ることなかれ。山崎さんがこれなら生み出すのは、新たな社会なのかもしれない。