香川県の中高一貫校の教員である邑地秀一郎さん。早稲田大学時代はお笑いサークルの幹事長として活躍し、M1グランプリやR1グランプリにも出場。いまや大人気のお笑い芸人となったひょっこりはんさんの元相方という経歴の持ち主だ。
そんな邑地さんが教員となった理由とは。現在取り組むお笑い教育とは。
知られざるストーリーをぜひご一読あれ。
邑地さんは滋賀県出身。高校時代は陸上部の活動に打ち込んだ。最後の大会では怪我に泣いたが、受験勉強に気持ちを切り替え、浪人を経て早稲田大学に合格した。しかし、共に早稲田を目指した同級生の宮下さんは、残念ながら不合格でもう1年浪人することに。邑地さんは宅浪する宮下さんに電話で受験勉強のアドバイスをして、その甲斐あってか晴れて合格できた。宮下さんは邑地さんが一足先に入っていたお笑いサークルに後輩として入ることになった。その彼こそが後のひょっこりはんである。
「大学入学してすぐはアイスホッケーサークルに入っていました。でも、せっかく東京に来たからには何か爪痕を残そうと思ったんです。そこで、お笑いサークルに入りました。
早稲田大学には2つのお笑いサークルがありました。1つは早稲田寄席演芸研究会。山田邦子さんやオアシズさんなど多数の著名な卒業生がいました。一方、私が入ったお笑い工房LUDOは当時部員が9人しかいない潰れかけのサークルでした。先輩たちはとっても面白いのにもったいない。それなら、自分が立て直してやる。そんな気持ちで入りました。人数が少ないからたくさん舞台に上がれるという打算もありましたね」
邑地さんは幹事長に就任。立て直し施策が当たり、部員数は80人ほどに。ちなみに現在では部員300名を誇る日本最大のお笑いサークルとなっている。大学対抗戦日本一など圧倒的な強さを誇り、早稲田大学お笑いサークルの黄金期のはじまりとなった。
「ひょっこりはんとは、私が大学3年の時にコンビを組み、一年半ほど活動しました。お笑い工房LUDOでは、固定コンビはあえて組まない仕組みにしていたので、いろんな人とネタをやりました。私がこれまで組んだ人は、パチンコのプロになった人もいれば、経営者になった人もいました。
ひょっこりはんとコンビを組んで、殻を破れましたね。M1は2回戦まで進みました。ちなみにM1の2回戦に進むのって簡単ではないんです。当時は4,000組ほどエントリーして、2回戦に進むのが1,000組くらいという厳しい戦いでした」
邑地さんの最高成績は、M1グランプリが3回戦進出。R1グランプリが2回戦進出だ。がむしゃらにお笑いを追究した学生生活だった。
「サークルの幹事長は大変でしたね。あと、ひょっこりはんもですが、後輩にハナコの岡部がいたり、才能がある人がたくさんいました。進路を考える中で、自分はお笑いを続けるのではなく、お笑いで学んだことを社会に還元したいと思うようになりました。そこで、プロの誘いを断り、就職活動をしました」
リーマンショックの翌年の就職活動だったが、早々とある総合商社を含む3社からの内定を獲得。あっさり就職活動を終えた。だが、自己分析をする中で、どうも自分には教員が向いているのではないかと考えるようになったという。
「やりたいことより向いていることを仕事にしたほうがいいのではないかと思っていました。お笑いで身につけた話す力。陸上部という部活動経験。大学受験も詳しい。英語も好き。教員が向いていると思いました。そこで、就職を1年遅らせて教員になることにしました。内定をいただいた私立3校の中で、人生でこれまで一度も行ったことがない場所に行ってみたいと思い、香川県に移住を決めました」
2012年4月に邑地さんは、大手前高松中学高等学校の教員となった。だが、お笑いのノリで教育現場に入ったところ、最初は周囲から冷たい目で見られてしまったという。お笑いのノリは受け入れられないと感じ、自身の経歴を隠すようになった。
お笑いとは完全に無縁の生活をしていたある日、元相方だったひょっこりはんさんが若手芸人の登竜門と評される番組に出演することになった。なんとか応援したいという思いから、勇気を出して当時担任をしていたクラスの生徒に自身の過去を話した。2018年のことだった。
「意外とポジティブな反応が多かったですね。これを機に、本格的に生徒にお笑いを教えるようになりました。文化祭の出し物とかでお笑いをやりたいっていう生徒が意外と多いんですよね。指導する中で気づいたことは、お笑いをやっていた生徒の大学受験の結果が良かったことです。これはもしかして教育効果があるのかも知れないと感じるようになりました」
翌年、クラス担任を持ちながら、香川大学大学院地域マネジメント研究科に通い始めた。恩師である原真志教授のアドバイスもあり、中学生が英語で日本式のお笑いをすることの教育効果をテーマに研究を進め、12万字を超える研究論文はプロジェクト研究優秀賞を獲得した。
「学校では正解を教えます。でもお笑いの基本は、正解を分かった上で、あえてそこからずらして不正解を出すことです。昨日までの正解が明日不正解になるような激動の現代において、この「ボケの能力」が大事なのではないかと思います」
現在、大手前高松中学高等学校では、実際に邑地さんの主導により、中学3年生が取り組むパフォーマンスの授業の枠で、お笑いの授業が行われている。パフォーマンスの成果発表会では、お笑いに限らず、ダンスや手品など多様な選択肢がある。だが、8割の生徒がお笑いを選択するという。
「香川県民って目立つのを嫌がるって言われますが、私はそうではないと思います。やりたくない感じを出しながら、実はやりたい。そして実際にやるとめっちゃ面白い。お笑いむっつり県なんですよね。そして、お笑いでうけた経験って生徒たちの大きな自信になるんです。人前に堂々と出ることができる生徒が育っています」
学校現場で奮闘する一方で、よく知っている後輩たちの活躍をテレビで観ることが増えた。そんな中、自分もいつかお笑いの舞台に再び立ちたいと思うようになった。すると、とある中学2年生の女子生徒が邑地さんのもとを訪ねて来た。
「お笑いをやりたいって言うんですよね。そこで相方探しを手伝いました。でも、なかなかその生徒と熱量が合う生徒がいなかったんです。するとこう言われまして。「他の子と組むくらいなら先生とやりたい。」って。せっかくの申し出なのでお受けすることにしました。デビューを学園祭でと思ったんですが、何やっても笑ってもらえる場ではなく、本気の人には試練を与えた方がいいと思い、M1グランプリの1回戦にエントリーすることにしました」
今年8月の広島予選に出場した2人。70組くらいの出場者がいた。時間が無い中で4回のネタ合わせをして本番へ。その結果はいかに。
「M1の1回戦って異様な雰囲気なんです。お客さんは本当にお笑いが好きな人たちです。70組全部を見るなんてことはないんです。基本的には、自分の好きな芸人だけを観てます。あとは寝てるような感じです。だから、本当にうけないんです。でも意外とちょっとうけてしまったんです。これはもしや2回戦もあるかもしれないと思いました」
残念ながら1回戦敗退となったが、ナイスアマチュア賞を受賞。そのコントはYouTubeで拡散された。反響は大きく、「早く新しいネタを披露してほしい」「僕も頑張ろうと思いました」など、様々な声があった。
「僕も頑張ろうと思ったって声は本当に意外でした。でも、お笑いが人に勇気を与えるのかと驚きました。そこから、コンビで活動を始めました。YouTubeチャンネル「二者面談」を開設し、ここ1ヶ月で新ネタを4本やりました。いま自分の人生がどういう方向に向かっているのか全くわからないですが、またお笑いをやってみようと思って取り組んでいます」
現在、邑地さんは飛翔コースという六年一貫コースの主任と、中学団長、そして中学校の野球部部長という立場である。四国で一番の学校を作ることが目標だ。これまで香川県は公立が強い県であった。その中で、徐々に実績を残しつつある。
「3年前、当校の中学校の募集ではほぼ全員入学できる状態でした。しかし、ユニークな教育に取り組み、現在では倍率4倍となっています。私は教育におけるガチャを無くしたいと思っています。担任ガチャ、同級生ガチャ、授業担当ガチャなど。周囲の環境に左右されてしまう状況を無くしたい。そこで、いまは中学1年で年5回クラス替えをしています。担任も固定せず、3人で2クラスを受け持つローテーション制です。定期テストも廃止して、小テストなどの平常点で成績をつけています。
あとはお笑い教育ですね。私は香川県をアマチュアお笑い県にしたいと思っています。自己肯定感ランキングで香川県は最下位の年もあるほど低いんです。個人的に分析したところ、お笑いに対する要求レベルが高い県が、ランキング下位なのではと思いました。早稲田大学時代、私はよく「おもんないは禁止。みんなでおもしろく変える努力をしよう。」と言っていました。すべってもいい。チャレンジしたことを称え、そこからどうしたら良くなるか、みんなで取り組む。そうして、失敗を恐れずにチャレンジする気運を作れたらと思います」
邑地さんが仕掛ける教育改革は着実に新しい風を吹かせているようだ。お笑いと教育。これまで相容れないものとも思われた存在が組み合わさることで、まさにイノベーションが起きている。これからの展開に目が離せない。
そして最後に、お笑い芸人としての邑地さんの目標を聞いてみた。
「個人ではR1で優勝したいと思います。M1でもある程度目指したいですね。相方の成長ぶりはすごいです。このままいくと、高校3年では上沼恵美子さんに匹敵してしまうかもしれません」
「先生、もっとこうしたら売れるで」。今日も教室でZ世代のお笑いファンたちにつっこまれるながら、芸人としての道も再び歩み始めた邑地さんであった。