若き老舗旅館5代目の大転換 「子育て家族」をターゲットにした背景にある、亡き父との思い出

若き老舗旅館5代目の大転換 「子育て家族」をターゲットにした背景にある、亡き父との思い出
扇芳閣(三重県鳥羽市)の5代目・谷口優太さん

コロナ禍をきっかけに留学先から帰国し、直後に家業の旅館を継いだ若き5代目は、それまでのコンセプトを一新し、「子育て家族にやさしい旅館づくり」に取り組んでいる。そこには亡くなった父へ思いがあった。

コロナで考えた、旅館の未来 

「旅館をリブランディングしようと思う」

三重県鳥羽市にある老舗旅館「扇芳閣」をコロナ禍で引き継ぎ、2か月ほど経った頃だった。当時27歳だった5代目・谷口優太さんの大きな決断に、母である女将や、祖父母である4代目と大女将も静かにうなずいた。

「2020年3月までオランダ留学をしていて、帰国後すぐに旅館を引き継ぎました。でも最初の仕事がコロナが拡大し始めた時期だったので、“旅館を閉める”ことでしたね。GWという宿にとっての繁忙期に休館したので、朝から晩までお客様は来ない、電話もならない状態でも、月末には数千万円に上る従業員へのお給料をはらわなければなりませんでした。その為に数億円規模の借入をどうするのかに頭を悩ませました。時間だけはあったので、事業計画を1日中練ったり、社内分析や、自分が本当に成し遂げたいこと、死ぬ時に『良い人生だった』と思えるにはどうしたらいいかということまで考えていましたね」

そして谷口さんは、企業や学生の修学旅行といった団体旅行客の受け入れをメインに行っていた扇芳閣のコンセプトを一新。「世界中の子育て家族から愛される上質な旅館になる」を新たに掲げ、メインターゲットを子育て家族に設定した。

客室の図面イメージ
客室の図面イメージ

旅館業を通じて、子どもとお父さんお母さんが豊かな時間を過ごしながら、一生心に残る一瞬を作るお手伝いをしたい。ファミリーフレンドリーな旅館づくりに取り組むと決めた背景には、亡くなった父への思いがあった。

「私の父は、私が15歳の時に脳幹出血で倒れ、その後12年間、亡くなるまで植物状態となりました。その後は一言も言葉を交わせないまま、見送りました。12年前の当時、父は旅館コンサルなどで働きづめでした。私は出張中の父が倒れたと聞いて、急いで東京の病院へ駆けつけたのですが、ICUに着いた時には、父はすでに植物状態で言葉を交わすことはできませんでした。待合室に戻り、ベンチに腰掛けた自分。その胸をさらに苦しくしたのは、最後に父と交わした言葉を思い出せなかったからでした。当たり前の瞬間、時間はこんなにも簡単に取り戻せなくなるんだ、と悔しさばかりがこみ上げました」

一方で、父親との幼少期の思い出はずっと脳裏にあった。地域のお祭りで父の担ぐ神輿に自分が乗ったこと、旅館が忙しい夏休みのなかで、唯一父が予定を空けてくれた旅行のこと。

一瞬だけだったとしても、楽しかった記憶はずっと残り続ける。「その一瞬を自分の旅館で作ることができたなら」。谷口さんはそう考えた。

子育て世代に愛される旅館を目指して

旅館のリブランディングを決めてから、改革の構想を練り始めた。クラウドファンディングにも挑戦しつつ、妊娠中から10歳前後の子どものいる300名の男女にアンケートを実施し、旅行中に大変なことを調査。そこで、小さな子ども連れ旅行では、大人たちが‟非日常”を楽しめていないことを知った。

「カップル時代は旅行は非日常を楽しむものだったはずなのに、子どもが生まれると食事やお風呂の時間を考えたり、夫との二人の予定を立てられなかったり。食事を味わうこと、風呂にゆっくり行くことなどを諦めている人もいました。そこで、子どもも大人も非日常を味わえる空間を提供できる旅館を目指そうと思いました」

旅館の様子
旅館の様子

そこで、客室は85部屋から60部屋に改築して一部屋を広くし、親子で入れる風呂を完備したり、子どもと遊べる空間も作ったりすることにした。花瓶や子どもが触れたら危険なものの代わりに積み木にもなるアート作品を置くことで、親への負担も軽減する。

「それから、旅館の裏山に森のアスレチックを作って、森と人との距離を近づけたいですね。木って面白くて、高さ自体は建物2階建てでも足元細いから余計にハラハラ、ワクワクするんです。疑いを持ちながら歩かないといけない場所は日々の生活にはないですよね。森に入ると、大人のより子どもの方がスイスイ駆け巡っちゃったり、いつもと違う親子関係性ができるのも、非日常だなと思ったので、そういったきっかけになる場所をつくりたいですね」

谷口さん自身、小学生の頃は裏山を駆け巡り、秘密基地を作る少年だったそう。自己肯定感、リーダーシップを養い、そして人として成長させてくれた森を次の世代にも引き継ぎたい。

そんな思いを込めて、リブランディングの一環で旅館としては珍しいが、森のリスを主人公にしたオリジナルの絵本作りにも取り組む。当初は子どもにとっての旅館のしおりとして位置付けていたが、物語を通じて自然の大切さを知って欲しいと期待している。

「客室にも1冊ずつ置く予定で、お子さんと寝る前に一緒に読んでもらえたら嬉しいですね」

絵本写真
絵本写真

まず行うのは旅館のリノベーション。すでに客室の工事はスタートしており、2023年5月までにレストランやカフェ、チェックインのレセプションなどを順次改装していく。

「旅館業を通じて、家族や子育てにやさしい社会を実現できように頑張りたいです」

未来の社会を見つめる若き経営者から、目が離せない。

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