「やまびこ打線」「さわやかイレブン」の異名で高校野球の一時代を築いた、徳島県立池田高校。2022年の学校創立100周年を記念して11月13日、甲子園優勝メンバーらを招いた講演会「池高野球部レジェンド達の集い〜蔦監督・池高を語る〜」が開かれた。全国のファンと在校生たちが、次の100年に受け継ぎたいメッセージを堪能した。
全国の池田高ファンが参加
清流・吉野川が流れる徳島県三好市に池田高校はある。
講演会には、在校生を含め総勢800人ほどが集まった。一般枠380席を用意し、茨城県や仙台市など全国から多くの申し込みがあった。
登壇したのは、甲子園で優勝か準優勝の経験がある元部員のレジェンド8人。校歌と共にステージに姿を見せると、大きな拍手が湧いた。
講演のタイトルに登場する蔦監督とは、レジェンドたちが甲子園出場した当時の野球部監督で、2001年に死去した蔦文也さん。積極的に攻めていくスタイルから「攻めダルマ」と呼ばれた。
やまびこ打線の本音
講演では、8人から多くのエピソードが披露された。池田高校といえば「やまびこ打線」。やまびこのように打撃の快音が続く強力打撃を表現した愛称だ。
「実は、蔦先生は『打て』という指示しかできなかったんです。みんなバントが下手で、打つだけになったのが本音。四国大会の決勝で、スクイズに失敗して負けたこともあります」。1982年夏の優勝投手で、プロ野球・南海に進んだ畠山準さんが語った。
ドラフト1位で巨人に入った水野雄仁さんは、83年春の優勝投手。「バントが大好きな監督でした。でも、選手はうまくバントできなくて。打って攻めていくしかなかったんです」
当時、練習にはウォーミングアップはなく、打撃マシンを準備すると打撃練習が3時間ほど続いた。最後に蔦監督によるノックを受けて、練習が終わるパターン。得意な打撃を集中して伸ばしたとも言える。
また、やまびこ打線は、いち早く金属バットや筋力トレーニングを導入した結果でもあった。練習中は「水を飲んではならない」という時代だったが、水野さんは「蔦先生は新しいものが好きで、僕たちの頃にポカリスエットが解禁されました。甲子園で飲んでいたら、他のチームがびっくりしていましたね」と懐かしんだ。
池田高校は71年夏の甲子園に初出場し、その後15年間で優勝3回、準優勝2回を記録する。わずか11人の部員で74年春に準優勝した「さわやかイレブン」について、メンバーのひとりだった森本秀明さんは「練習が厳しすぎて、次々に部員がやめてしまったから11人になったんです」と解説した。
破天荒な面もあった蔦監督は、高校の合格発表当日に「受かっとるから、すぐ練習に来い」と選手に電話したり、見学に来た選手に「ちょっと打ってみろ」と制服姿のまま打席に立たせたり。
在学中に父親を亡くした橋川正人さん(79年夏の準優勝)には「これからはワシを親父と思え」と、言葉をかけたエピソードも語られた。
野球部前監督でもある岡田康志さん(1979年夏の準優勝)は、「あの蔦先生でも、甲子園に出るまで20年も辛抱して花を開かせました。少々のことで弱音を吐いてはいかんと、いつも思っています」と話した。
数々の蔦語録
今の在校生たちは、野球部の華々しい活躍を知らない。そこで講演会を前に、定時制の生徒が蔦監督についてまとめ、会場に展示した。
甲子園での成績は42勝14敗で、勝率7割を超える。また、蔦監督の語録として「価値あるのは練習そのものであって結果でない」「野球の控えは人生の控えではない」などが紹介された。
展示をまとめた生徒たちは「すごく深みのある人物。実際にお会いしたかった」「『人生にスクイズはない』『人生は敗者復活戦ぞ』という二つの言葉が、僕に勇気を与えてくれた」と感想を寄せた。
会場には、蔦監督の着ぐるみが登場してファンと記念撮影する姿も。阿波池田商工会議所が2014年のセンバツ出場を機に制作した。普段は、JR四国の観光列車が到着する際に出迎えるなど、地域の「ゆるキャラ」として活動しているという。
若い人の支えになるのでは
同校の原史麿教頭は、蔦監督が長く勝てなかった時期を知る。「だれも池田高校が甲子園に出ると信じていなかったのですが、蔦監督だけは信じていました。つまり、大人も生徒自身も気づいていなくても、いつか才能が開くことがあるということだと思います」
池田高校の甲子園出場は14年のセンバツが最後。その時の監督だった岡田さんは「いまの時代に蔦先生と同じことはできません。ただ、私たち部員は手抜きや本気でやっていない時、蔦先生に叱られました。情熱を持って好きな野球に打ち込んでいる姿に、部員はついて行ったんです」と話した。蔦語録についても「若い人を支えてくれる言葉もあるのでは」と語った。
《負けることは不名誉なこととは考えとらん。不名誉なことは負けることによって、人間が駄目になってしまうことじゃ》(蔦監督)