自らの介護経験から、ケアワークフォトライターとして日々、介護の現場で写真を撮り続ける野田明宏さん。鼻にチューブを入れ、涙を浮かべながらカメラに目を向ける高齢者。真剣な眼差しで介護者の体を支える介護スタッフ。笑顔の家族。そこには喜怒哀楽をたたえ、生きている人そのもののリアルな姿がある。野田さんがライフワークとする介護写真の世界に入っていった理由は。その中にある思いは。それらを知りたくて、夏の終わりのある日、野田さんを訪ね、その人生を尋ねた。
自由気ままな暮らしの末 訪れた父の介護
大学卒業後は定職につかず、社会勉強と称していくつかのアルバイトを続けた後、バックパッカーとして60か国以上を放浪した野田さん。旅の最後に滞在した中央アメリカでは戦場カメラマンを目指し、内戦中のエルサルバドルに足を踏み入れたこともあったが、厳しすぎる現実に意気消沈し、帰国。その先に待っていたのは親の介護だった。
病気で倒れ、入院中の父親を必死で看病する母の姿を見かねた野田さんは、彼女に代わって病院に泊まり込む。しかし、子どもの頃から父といい関係ではなかった野田さんには、父との接し方がわからない。
かつては自分に厳しく当たっていたのに、いま目の前にいるのは病で気弱になってしまった父。そんな父に戸惑いながらも、生まれて初めて下の世話をしつつ、つい罵詈雑言を浴びせてしまう自分。そんな状況が情けなくて一人泣いた。「思えば、これが介護の原点でした」。野田さん30歳の時のことだ。
今度は母がアルツハイマー病に
3年の介護ののち、父は他界。それから十数年を経て今度は母がアルツハイマー病に罹患した。
「以前からおかしいなとうすうす気づいていたけれど、『昨夜黒づくめの人がやってきて、(母の)頭を殴って逃げて行った』と聞き、決定的だと思った」
病院を受診し、2002年、アルツハイマー病中期との診断を受ける。とっさに「この人は自分が面倒を見る」と決意したという野田さん。47歳独身で、在宅介護の日々が始まった。
週4日のデイサービスのほかは、基本的に野田さんがすべて面倒を見なければならなかった。そんな中で最初の大きな壁は入浴介護。親子とはいえ、さすがに母親の生身の体を見るのは抵抗がある。風呂場で一人悶々としていると「来たよー」と母。もはや羞恥心を失くし、ニコニコしながらすっぽんぽんで立つ母に、スコーンと力が抜けるのを感じたという。
とはいえ、徐々に症状が進んでいく母の介護は文字通り泣き、怒り、笑いの毎日。どんな時も凛としていたかつての母の姿はなく、トンチンカンな会話や行動で野田さんをイライラさせる。怒りのあまり手をあげ、自己嫌悪に陥ったのは数えきれないほど。自律神経失調症にもなった。それでも野田さんには母を施設に預けるという気にはならなかったという。
「さすがに疲れ果てて1週間ほど入ってもらうのもいいかと思い、一緒に施設見学に行った時、母は『叩かれても私はあんたといる方がいい』と言ったんです。その言葉に、何があっても自分でやると覚悟しました」
そんな状況での壮絶な介護は、気がつけば10年にも及んでいた。
母の死。そしてたった一人でどう生きるのか
「母がデイサービスに行っている時間以外は、四六時中一緒に過ごす。必然的に社会から孤立し、人との交流もなくなりました」
独身で、たった一人での在宅介護は、孤独との闘いでもあった。そんななか、野田さんはブログを始め、介護の状況を撮影した写真を添えて自分の感情を吐き出すように書いた。「在宅介護という閉塞感極まりない生活のなかで、自己存在証明をしたかったんです」と野田さんは当時を振り返る。
それを見ていた人の反響は思いのほか大きく、そのうち新聞社から介護をテーマにしたコラムや講演、雑誌の取材依頼もきた。縁あって自宅近くの介護施設に写真を撮りに出かけるようにもなった。一時は失っていた社会との接点が、図らずも介護をきっかけに再び生まれていった。
そして2012年、長い在宅介護生活を経て母は他界。その後の野田さんは、母の介護と向き合った10年の重みをいろんな形で感じることになる。
いつもそばにいた母を失った悲しみと虚無感、そして孤独。介護に没頭していて定職もない今、母が亡くなったあとどうやって生計を立てていけばいいのかという不安。一時は介護ライターで食べていこうと思ったこともあるが、結局思うようにいかない。小規模多機能居宅介護とサービス付き高齢者住宅で4年半勤務もしたが、結局腰を痛めて退職した。
介護のリアルを伝えるために 自分視点の介護写真を撮る
そんななかで改めて見つめ直したのが介護写真だった。
「人がやってないことをやってみたかった。僕はいわゆるプロの写真家ではないけれど、介護に携わった経験がある。介護の写真はあたたかみを感じさせるものが多いけれど、実際の介護はこんなもんじゃない。僕はリアルな写真を撮りたいと思いました。実際に調べたらリアルな姿をとらえたものはなかったし、介護写真のプロカメラマンもいませんでした」
そこで、知り合いの介護施設に1か月間泊まり込み、写真を撮らせてもらうことに。食事をつけてもらう代わり撮った写真はすべて寄贈した。そんなことを何度か繰り返し、写真の腕を磨いていった。
20年近く介護現場に携わった野田さんが撮る写真は、単なる記録写真でもスナップでもない。被写体に迫り、話しかけ、信頼関係を築きながらとらえたリアルな風景だ。そこには深くシワが刻まれた高齢者の表情や介護者の真剣な姿がある。
独特の距離感で撮影した写真の数々は、介護施設の人たちや介護者の家族に思いのほか好評だった。撮りためた写真が膨大な量になった頃、「どこかで発表すればいいのに」という声に推され、周囲のサポートも得て、2020年にはクラウドファンディングで写真集も出版した。
あるひと言が野田さんの写真を変えるきっかけに
2022年6月には岡山市内で写真展を開催した。タイトルは「生老病死」。介護する人、される人の間に漂う空気や思いを真摯にとらえた写真に、毎日多くの人が足を運んでは見入った。そこで聞いた言葉が野田さんの胸を打ったという。
「ある介護者の女性が写真を見て言ったんですよ。『私ってこんな立派な仕事をしていたんですね』と。自分には今まで介護する側の視点で介護を捉えたことはなかった。目から鱗でした。自分の価値観だけで撮影していたけれど、今後は介護する人、される人の両面を意識して撮っていけたらと思います」
現在、野田さんは全国の介護施設を取材し、福祉関連の雑誌などに寄稿している。介護の日々を綴った文章は新聞連載や数冊の著書になり、同じように介護で悩む人々を励ました。かつては母の介護の様子がテレビ番組に取り上げられ、その後映画になり、海外から高い評価を得たこともある。
自分自身の存在証明として始めた写真入りのブログをきっかけに、ケアワークフォトライターという仕事を得た野田さん。もしかすると、愛する母が野田さんの新たな人生を導いたのかもしれない。
最後に、野田さんにとって介護とはどんなものだったかを尋ねてみた。
「介護は人間としてのすべてをさらけ出さなければならないし、特に親の場合はメンタルに堪える。でも、いろんな壁を越えられたのは、頭の中にある引き出しが、かつて親が自分のために尽くしてくれたことを思いださせたからではないでしょうか。介護を始めてやっと母親とちゃんと付き合えるようになった。今思えば、いい経験をさせてもらったと思っています」