香川県まんのう町羽間(はざま)地区は「はざまいちじく」ブランドで知られる、いちじくの産地だ。生産戸数は家庭菜園クラスも含め20〜30軒。150年くらいの歴史があると言われているが、本格的な出荷栽培は1970年に始まった米の生産抑制政策「減反政策」以降。米麦からいちじく栽培に転向する農家が増えて産地になった。
しかし、ここにも高齢化による後継者不足という課題があった。そこに「チャンス」と飛び込んだのが、株式会社Bettim(ベッティム)の篠原仁一朗さん(26歳)だ。
野球人生との決別
篠原さんは小中高と野球一筋の日々を過ごし、大学でも野球を続けたいと東京の大学に進学。試合に出ることはできたものの「ずっとトップできたのに、東京にはすごい選手がたくさんいました」と話す。大学卒業後は地元企業の野球チームに迎えられ、四国でベストナインに入るなど、野球人生ではいくつもの賞を獲得してきたが「野球とは全然違うことでトップを狙いたい」と2年数か月で会社を辞め、野球とはきっぱり決別した。
100歳で他界した曽祖父がつないでくれた縁
退職から2か月後、同じ敷地に住む曽祖父が100歳で突然他界した。それまで聡明だった曽祖父が突然逝ってしまった現実を目の当たりにし、「爺ちゃんの生き様がカッコよくて、悲しみよりも感銘を受けた」という篠原さん。
そして葬儀の酒の席で、いちじく栽培の師匠・白川訓弘(くにひろ)さん(80歳)が話す「地元のブランド、はざまいちじく」の話にどんどん引き込まれていったという。
「ずっと野球ばかりしてきたので、はざまいちじくのことは全然知らなかった。農産物は単に食べ物、空腹を満たす物、程度の認識でした」
地元のブランドいちじくの話がキラキラまぶしく感じられた。そして思わず「ぼく、それやります」と公言すると、その場の皆が喜んでくれたという。こうして篠原さんのいちじく人生が始まった。
はざまいちじくにはチャンスしかない
師匠や周囲から、はざまいちじくの栽培や販売、流通について聞くうちに感じたのは「まだまだ伸び代がある。ぼくらの時代のやり方、ブランディング、全国への拡大……。はざまいちじくにはチャンスしかない」ということ。ポジティブだ。なにより「地元のブランドを残したい、守りたい」そんな気持ちが強かったという。
もともと起業志向があった篠原さんは、仲間と農業生産法人を立ち上げた。会社の名前はBettim(ベッティム)。前職場の同僚ら4人が社員となり、いっしょに畑に立っている。
「ずっと野球をしてきたので、自分はチームプレーとか役割分担、戦略、そういう思考でしか考えられないんですよね」
社名は畑の名前、Bettim Farm(ベッティム・ファーム)から。そのBettimとは、「時代に先駆ける」という意味の英語、Befor the timesからの造語だ。
農業はすぐに結果が出せるものではない。師匠から託されたいちじくの成木が約30本、定植3年目でようやく収穫できるようになった木が60本、来年から収穫できる木が180本。あっという間に栽培本数では羽間一となった。まだまだ満足な売り上げには届かず、サツマイモやブロッコリー、ほうれん草などの野菜も栽培しているが、それでも苦しい。
「来年以降、羽間の遊休農地などに400本以上のいちじくを植えるつもりです」
量が増えても、決して手は抜かない。
「はざまシールを貼って出荷する以上、プライドをもって選果しています」
そうでなければ、ブランドは維持できないということを全員が意識しているという。
ぼくらが背負っているのは羽間の未来
「今はまだ苦しいけど、絶対に残す。このブランドを全国に拡大させたい」篠原さんの話は気迫に満ちていた。そして師匠・白川さんも「若いもんが継承してくれるのは、本当にありがたい。なんでも教える」と、彼らに期待を寄せている。そんな話をする白川さんの表情は、まるで孫を見守るような笑顔だ。
それをまっすぐに感じ取っている篠原さん。「地域の未来を背負っている」という自覚は、この地に根を張る覚悟にほかならない。
今年は新聞やテレビなどでBettimが紹介される機会が度々あり、その度に注文も増えた。にもかかわらず、この夏は長雨や日照不足もあって、青果として出荷できる量は少ない。「実はうちのスタッフは、まだ自分の親にさえ食べてもらっていないんです」
この日も朝9時過ぎには青果店の集荷がやってきた。スタッフの家族にも極上のはざまいちじくが届きますように……。
「未来しかない」というはざまいちじくの、そしてBettimの10年後、20年後が楽しみだ。