岡山県北東部に位置する奈義町。町内を真っすぐに走る国道53号線沿いに、口コミが口コミを呼んで、岡山県北で大人気の移動販売たこ焼き屋がある。その名も「たこやき ももちゃん」。店主の須一賢三さんは、関東で有名なバンドに所属し活躍したプロのドラマーと言う異色の経歴を持つ。
奈義町へUターンしてからは、音楽の素晴らしさを伝えたいと、津山市のバンドに所属して各種イベントで公演をしている。また、奈義町内で小・中学生対象のドラム教室や、ドラム体験ワークショップを行ったり、夜になるとダーツバーを開いたりと、フリーランスで働き多岐に渡り活躍中。
さまざまなことにチャレンジし続け、人生を謳歌している須一さんに話を聞いた。
ドラムとの出会い
音楽が好きで、何か楽器をやりたいと思っていた小学6年生の時、兄がギターを弾いており「自分も!」と思ったが、指が短くて届かず苦戦していた。そんな時に知人からドラムセットを譲り受けることになったのが、ドラムとの出会いだった。少し叩いてみると、簡単にビートが叩け「これならいける!棒ならもてる」と思ったそう。
高校生になりバンド活動をする中で、両親からはなかなか認めてもらえずにいたが、諦めずにドラムを叩く日々を過ごす。高校3年生の時に、自分のライブに両親を招待すると、その様子を観た両親が認めてくれるようになった。「今思うと、親に頑張っている姿を見せないといけないんだなと思う」と須一さんは話す。
高校卒業後は兄の経営するダーツバーの手伝いをしていたが、東京でプロのドラマーになりたいという夢を抱き上京し、見事夢を叶える。
Uターンのきっかけは東日本大震災
バンドは人気絶頂! CDリリースに、幕張メッセで行われたカウントダウンジャパンという大きなステージにも立つ。そんな時に起こったのが、東日本大震災だった。須一さんは震災の瞬間、東京のスタジオでレコーディングをしていた。大揺れで外に出てみると、人々は電柱につかまり高いビルは揺れていたそう。
震災の後、バンド仲間と仙台へ行き復興ライブで義援金寄付を行うなどの活動をするも、計画停電などで東京での生活がままならなくなり、須一さんをはじめとするバンドメンバーが、全員帰郷することに。こうしてバンドは解散となってしまう。
帰郷しても「続けた音楽」
地元に戻ってからは、「ドラムを演奏する楽しさ」や、他の音楽プレーヤーとの活動により実感した「他者とのコミュニケーションの大切さ」を地元の子どもたちにも伝えたいとの思いから、祖父の倉庫をドラム教室に改築し、今度は教える立場として音楽に携わり続けている。
「音楽は感情表現が自由にできる手段の1つ。プラモデルと一緒で、満足できる音がなかなか出ない。終わりがないんですよ。だから止められない」と須一さんは話す。
また、解散したバンドメンバーと現在でも連絡を取り合い、リモートで音楽づくりをすることもあるそうだ。
好きこそものの上手なれ!?ご当地たこ焼き屋も手掛ける
奈義町へUターンし、ドラム教室を開講すると同時に、須一さん自身のたこ焼き好きから「たこやき ももちゃん」をオープンさせる。
卵不使用、米粉ブレンドのこだわりのたこ焼きは、ツナ味、激辛味などの数種類あるトッピングを自由に選べる無限大の組み合わせ。
また、移動販売車の外装はチョークで書ける黒板仕様。子どもたちが絵を描いて楽しむことができ、岡山県北で瞬く間に人気となった。
コロナ禍が人生を楽しく生きる追い風となった
たこ焼きの移動販売が雑誌等にも取り上げられ、話題のお店になる一方で、バンド教室やダーツバーの運営が多忙となり、バンド教室の開講が難しくなるなど、試行錯誤しながらの日々を続けていた。そんな中流行したのが新型コロナウイルス。移動にも制限がかかってきたことで、奈義町での販売をメインにすることを決意した。
すると、拠点を地元に切り替えたことで、時間的な余裕ができ始め、バンド教室、ダーツバーの運営も思うような活動をすることができるようになった。また、たこ焼きも地元だけでなく、町外の客も足を運んでくれるようになってきた。
このコロナ禍が、須一さん自身の「人生を楽しく生きるための術」を生みだす追い風となった。
町に人を呼びこんで活性化を
今後の夢について「いろいろありますねぇ」と笑顔で話す須一さん。
「ドラム教室の生徒さんたちに大きな舞台での発表をする場を作ってあげたい。コロナ禍で、イベントの中止が相次いでいるので」と少し残念そうに話す。そして「この町に多くの人を呼び込んでもっともっと活性化させていきたい」と熱く語ってくれた。
さまざまなことに挑戦する須一さん。日々の生活に情熱を注ぎ続け、人生を楽しんでいる彼の今後が楽しみだ。
※「たこやき ももちゃん」の営業情報は、SNSで発信されています。